2024年3月18日投稿

前回からの続き

「改革の時代」は終わり、「政治の再イデオロギー化」が、2000年代中葉から20年の政治のテーマだ、とするのが本書の著者の見解である。もちろん、その中心人物は、安倍晋三である。日本政治は憲法問題や防衛政策といった保革対立争点が、再び政治の焦点となってきた。著者は、55年体制的な政策的対立構造への回帰の過程とも述べている。

 2005年9月の郵政選挙自民党を大勝に導いた小泉は、2006年10月の総裁任期満了で勇退した。この時の自民党の派閥の状況は、小泉を出した清和会(清和政策研究会)がもっとも存在感を示していた。旧竹下派経世会)は、小泉から古い自民党の象徴とみなされ、ポスト小泉の候補を立てることすらできなかった。かつて、主流派を形成していた宏池会も分裂が重なり(河野洋平らが離脱)、さらに「加藤の乱」の痛手を引きずっていた。旧中曽根派も分裂し、その一部が志帥会を名乗っていた。2006年9月の自民党総裁選では、安倍晋三(清和会)が、「戦後レジームからの脱却」を政権目標にかかげ、麻生(河野グループ)、谷垣(宏池会)を大差で下し、新総裁になった。安倍は、前年11月に採択された、「新しい憲法の制定」を掲げた自民党の新綱領の実現を目指した。

 野党民主党日本新党出身の同党右派の前原誠司が代表に選ばれ、新しい顔として期待されたが、偽メール事件で大失敗し、引責辞任に追い込まれた。そこで、03年の民由合併以来、雌伏していた小沢一郎が代表に選出された。鳩山を幹事長、菅を代表代行に就け、トロイカ体制を敷いて安倍政権に対峙した。小沢執行部は構造改革によって広がった社会的格差の是正を優先課題として押し出した。安倍政権側では、格差拡大や地方経済の疲弊といった小泉改革の副作用に伴い、かつての「抵抗勢力」の巻き返しが強まった。具体的には、郵政民営化反対議員の復党問題で、06年12月、野田聖子ら11名の復党が認められたが、世論には不評で、内閣支持率は低下した。さらに、閣僚の不正事務所経費や失言が続いた。決定打は、「消えた年金」問題、すなわち公的年金保険料の納付記録の漏れの問題が明らかになったことである。内閣支持率だけでなく、自民党の支持率も低下した。こうした中で、07年7月に参院選が行われ、自民党の獲得議席は37に留まり、民主党は60議席を得た。特に、農村地域の多い1人区で自民は6勝23敗となり、都市部との格差が支持を失った結果を示した。しかし一方で、比例得票数で見ると、小泉政権時代の04年参院選と07年参院選では、自民党の成績はそれほど変わっていない。本書の著者の見解では、民主党社民党国民新党との選挙協力が進んだ結果が、自民党議席数を減らした一番の理由としている。政界では、この理由が(故意に?)見過ごされ、自民党反小泉改革路線に舵を切るきっかけとなった。安倍は体調の悪化も重なり、退陣することとなった。

 福田康夫(赳夫の長男)が麻生を下して、自民党総裁となった。福田は安倍に比べるとハト派で、首相の靖国神社参拝に反対で、集団的自衛権行使の解禁に慎重であった。小泉政権時代に制定された、インド洋で米英軍などに対する自衛隊の支援活動を支えるテロ特措法が07年11月に期限切れを迎えるので、新テロ特措法を成立させることを目指した。しかし、「ねじれ国会」のため、断念せざるを得なかった。この状況で、急に持ち上がったのが「大連立」構想で、民主党の政権入りは、福田首相が望んだだけではなく、民主党党首の小沢も前向きだった。しかし、民主党には連立入りに反対する議員が多く、連立は幻となった。当時の連立政権は衆議院で3分の2以上の議席を有しており、参院で否決されても、新テロ特措法は成立した。ただ、福田内閣に対する支持率は2割を切る状況で、6月は参院で史上初めて首相に対する問責決議案が可決されてしまった。この状況を打開するには、新総裁の下で解散総選挙に臨む以外に自民党政権を維持する道はないと、福田は考え08年8月退陣を表明した。総裁選の結果、麻生太郎が圧勝し、麻生内閣が誕生した。しかし、大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻に端を発する金融不安が起こり、その余波が日本に及んだ。日経平均株価は、9月12日に12,214円だったのが、10月28日には6,000円台に落ち込んだ。その結果、派遣切りや雇止めなどが起こり、混乱となった。麻生内閣衆院解散を先送りして、この危機に対処し、大規模な財政出動を行った。小泉内閣が目指した財政再建目標の達成は絶望となった。この逆コースに反発したのが大阪府知事だった橋本徹で、地域政党大阪維新の会を旗揚げした。現在の維新はこの流れを継ぎ、「小さな政府」の目標をかかげている。

 民主党は、09年5月に行われた代表選で、党創業者鳩山が岡田を制して党首に返り咲いた。小沢は鳩山を擁し、選挙担当の代表代行という役割を担った。民主党は来る衆院選用のマニフェストに、子供手当、高速道路無料化、農家個別所得補償といった財政負担の重い公約を並べた。これに対し、自公からバラマキとの批判が出ただけでなく、岡田幹事長を筆頭に党内からも修正を求める動きがあった。09年7月の都議選で、民主党は大勝し、自民党内でも麻生退陣が唱えられるようになったが、時すでに遅く、7月下旬衆院が解散され、8月に総選挙となった。投票率は69.3%となり、盛り上がりを見せた。結果は衝撃的で、自民党議席は300から119へと前代未聞の激減となった。逆に、民主党は115議席から308へと躍進し、政権交代が実現のものとなった。この劇的な議席配分の変化は、小選挙区制に特有の現象であり、政治改革の成果とみることができる。鳩山内閣の布陣は、菅副総理兼経産相、岡田外相、小沢党幹事長など、各グループのバランスをとったものになった。報道各社の調査では、70%超の支持率を得ており、国民の強い期待がうかがえた。

 鳩山内閣では、官僚の政策への関与を抑えるために、閣議にかける前に法案を官僚トップ間で承認するための事務次官等会議を廃止し、各省内に政治家である政務三役(大臣、副大臣政務官)が政策内容の細部にまでかかわる方式に変えた。さらに、内閣官房に国家戦略室(菅が担当大臣)を設置し、トップダウンの政策立案の要にした。選挙で大勝したことは、マニフェストが国民に支持されたことだから、それを実現することが急務であった。まず、財源(16.8兆円分)であったが、増税は公約にはまったく触れていなかった。そこで、「事業仕分け」などによる財源発掘に取り組んだが、捻出できた財源は3.1兆円のみで、まったく不十分であった。結局、どの公約もはたすことはできなかった。また、鳩山は普天間飛行場沖縄県外に移設すると公言していたが、米国の賛同は得られるはずもなく、10年5月まで先送りしたものの、辺野古沖に新基地を建設することで米国と合意した。この件で、社会党が連立政権から離脱した。さらに首相と幹事長の「政治とカネ」の問題が追い打ちをかけ、内閣支持率は5月には、20%を切る調査結果も出た。鳩山は6月初頭、退陣を表明した。政権交代によって誕生した鳩山政権は、9か月で幕を閉じた。

 ただ、僕(矢原)が見たところ、かなり滅茶苦茶な鳩山内閣であっても、リーマンショックからの回復に水を差すことはなかったし、GDPはむしろ増えていた(前回添付した図)。これに対し、経済の数字から見ると、小泉内閣のときには目立った経済成長はなかった。

 2010年6月、鳩山を継いだ菅直人の内閣の発足とともに、内閣支持率はV字回復をみせた。ところが、首相自ら消費税引き上げを示唆する発言を行い、党内での混乱と世論の反発を招いた。7月の参院選民主党議席自民党を下回り、またもや「ねじれ国会」になった。2011年3月11日、東日本全域を超巨大地震が襲い、大津波による東北地方の惨状が明らかになり、福島第一原発で爆発事故・メルトダウンが起きるなど、わが国は第二次大戦以来の存立の危機を迎えた。国会は休戦状態となったが、震災に対する政府の初期対応のまずさなどが、国民の政権に対する信頼を失わせ、4月の統一地方選挙民主党は惨敗を喫した。6月初頭、自公両党の内閣不信任案に、党内の小沢グループが同調する動きもあり、再生可能エネルギー特措法の成立を機に、菅は8月下旬ようやく退陣表明した。次いで、民主党代表選の結果、野田佳彦が選ばれ、首相に指名された。野田は経済政策面では財政再建派で、消費税引き上げをやむなしと考えていた。党内で、消費税引き上げやTPP参加に反対の小沢・鳩山系の議員が多く、その一部が離党した。野田執行部は消費増税法案をまとめ、野党の自民・公明にすり寄った。もとより、不人気な増税民主党政権に決めさせることに、自民党の異論はなく、消費増税法案を修正(14年4月に8%、15年10月に10%)可決することになった。7月に小沢にグループが離党、新党「国民の生活が第一」を結成した。増税や内輪もめに対し、国民は拒否反応を示し、内閣支持率民主党支持率が激減した。この時期、香港活動家が尖閣諸島に上陸する事態が起こり、過剰反応した都知事石原慎太郎は、尖閣を都が購入する意を明らかにしたので、岡田は尖閣を国有化した。1972年に田中角栄首相と周恩来中国首相の合意によって、尖閣は現状維持(日本が潜在的な主権)となっていたのをひっくり返したので、中国は猛反発し、以後の日中関係悪化のタネを作ってしまった。自民党では、政権攻撃が甘いということで、谷垣は総裁再選をあきらめ、総裁選となった。第一回目の投票では、地方票を広く集めた石破茂が一位だったが、国会議員だけが参加する決戦投票で、安倍晋三が勝利した。一方、「近いうちに信を問う」と約束していた野田首相は、なすすべもなく、11月に衆院を解散した。

 自民党は「日本を取り戻す」をスローガンにして選挙戦に臨み、自民党は294議席を獲得し、選挙後に連立を組んだ公明党31議席を加えると、衆院3分の2以上を得ることになった。民主党は57議席(解散前230議席)で、壊滅的打撃を受けた。この結果は政権交代がまったくの失敗であったこと、55年体制型政治から転機を図る運動の挫折を意味した。

 この本の著者は、これから保革対決政治の再来と見ている。安倍は政権基盤を安定させるため人事を固め(ライバル石破茂幹事長を続投させた)、提出する法案数を絞り込み、国会審議での無理押しを避けた(2013年1月通常国会)。一方、政権は、「アベノミックス」と称する新経済政策をひたすらアピールした。内容は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「民間投資を喚起する成長戦略」である。第一の金融政策は、3月に日銀総裁となった黒田春彦と組んで、大胆な金融緩和を行い、日経株価は急上昇を続けた。内閣支持率は60%を超えた。2013年7月の参院選でも、与党が圧勝した。安倍首相は官僚に対する統制力を強化する目的で、内閣人事局を設置し、各省の幹部人事に官邸が関与する制度を作った(14年5月)。しかし、官僚による過剰な首相への配慮(忖度)が逆に問題視されるようになってきた。9月、政府・党人事で、ライバル石破を本人の意に反し、幹事長からはずし、閣僚として封じ込めた。代わって、総裁経験者の谷垣禎一を幹事長にした。これも反安倍勢力になりうる実力者を政権内に取り込む意図である。この後、閣僚のスキャンダル(例えば、小渕優子のドリル事件)が続出し政権への追及が厳しくなると、安倍は解散総選挙によって局面のリセットを図った。この選挙の名目は消費税10%への引き上げを延期することの承認を国民に求めたもので、政治的対立点にはなっていなかった(注:国会の解散権を首相だけが持つ、という制度の欠点表れた)。したがって、選挙の投票率は52.7%と歴代最低となった。しかし、安倍の狙い通り自民党は前回並みの議席を獲得した。3回の国政選挙で勝利した安倍は党内での権威が万全なものとなった。安倍首相は国際的な場でも存在感を示し、TPP参加(13年3月参加表明、15年10月大筋合意)は安倍外交の業績の代表的なものである。これは「一強」であったからこそ、農家の反対を押し切って、TPP政策をまとめた。

安倍のイデオロギー的右派の側面を見せたのが、まず特定秘密保護法案で、13年2月の国会で強行採決し、左翼だけでなく、文化人やジャーナリズムからも「決めすぎる政治」に批判が高まった。さらに、集団的自衛権は、従来の政府見解では「保有はするが憲法上行使できない」とされてきた。しかし、近隣国の軍事的脅威が高まる中で、米国との同盟関係を強化するため、集団的自衛権行使の解禁は不可欠であるというのが安倍政権の立場であった。2014年7月に、集団的自衛権の限定的行使を容認する旨の、閣議決定を行った。そして、同年12月の衆院選を制した。閣議決定の内容をふまえた安保関連法案は15年5月に国会に提出された。長らく維持されてきた憲法第九条の解釈の変更は、「戦後レジーム」への重大な挑戦にほかならない。はたして、ここから猛烈な反対キャンペーンが巻き起こった。国会内での野党による徹底抗戦だけでなく、国会前では学生団体など多くの群衆が集まり大規模なデモ活動が繰り広げられた。中でも、若者の団体SEALDSの抗議活動が目立った。一般の国民にもこの法案は不人気で、内閣支持率は低下した(7月に40%)。結局、9月に与党による強行採決によって可決・成立となった。

この間、日本政治の再イデオロギー化が進むと、各野党は右派的な政権に対する距離感を問われることになった。その結果、野党の立場は2ブロック(右と左に)に再編された。まず、維新が安倍政権に近い橋本徹らが離党して、「おおさか維新の会」(16年8月、「日本維新の会」と改称)を立ち上げた。民主党は維新の残党組を吸収して、党名を民進党に改め、最左翼政党の共産党との選挙協力関係を作って行った。

2016年夏の参院選に向けて、安保法案を成立させた安倍政権は、その直後、アベノミックスの第2ステージの「新3本の矢」政策であった。具体的には、「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」を目指すとされ、少子高齢化対策に重点を置いた内容であった。中身はともかく、スローガンとしては野党のお株を奪う意味をもった。そのため、2015年秋以降、内閣支持率は上昇局面に入った。安倍首相は宿願の憲法改正に向けて動き出した。衆参両院で3分の2以上の議席を確保しており、改憲発議の前提条件は整っていた。17年憲法記念日に、安倍首相は「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べ、9条について「1項、2項を残し、その上で自衛隊の記述を書き加える」という、「国防軍の設置」という自民党改憲草案から後退しているが、これは公明党への配慮と考えられた。政界での憲法議論は活発化したが、改憲発議への具体的プロセスは進まなかった。安倍にとっての誤算は、「森友・加計学園問題」が浮上し、便宜供与疑惑の対応に苦しむ事態だった。さらに、2017年秋、東京都知事だった小池百合子改革保守政党を立ち上げ、国政に復帰する意向を示した。小池は地域政党都民ファーストの会を7月の都議選で大勝に導くなど、日の出の勢いであった。小池は9月下旬「希望の党」を旗揚げした。突然の新党運動と解散風に、民進党内は動揺した。当時、代表だった前原は、野党再編を志向しており、民進党全体として希望の党に合流する方向を目指した。しかし、小池が安保・憲法観で一致しない左派系の議員を「排除」したいとの意向を示した。そこで、民進党左派系議員は10月初頭、枝野幸男を代表とする立憲民主党を立ち上げることになった。結果的には、安倍政権のイデオロギー攻勢が、野党の細分化をもたらした。

 2017年9月下旬、臨時国会冒頭に衆院が解散した。10月選挙の結果は、またもや自民党が圧勝した。その理由は、「改革の時代」に左右幅広い議員を糾合し自民党の有力な対抗勢力たるべき野党が分散した結果である。このことは、与党得票率49%、野党得票率43%にも表れている。2019年5月1日、天皇の退位による、元号が令和に改められた。政局も平穏で、7月の参院選も変り映えしない結果だった。しかし、消費税再引き上げ(10月)や安倍首相の花見の会スキャンダルによって、改憲の動きは鈍くなっていた。新型コロナのパンデミックによって、夏に予定されていた東京オリンピックが延期となった。20年8月末、安倍首相は持病が再び悪化したことを理由に退陣の意向を示した。

 この本に関するブログは、今回で終わる予定だったが、この後、菅と岸田の政権に続くが、もう一回書いて終わりにする。

 

 

2024年3月8日投稿

小泉改革について

 2000年4月、いわゆる「5人組による密室談合」によって、森喜朗内閣が誕生した。6月総選挙があったが、自民党公明党の協力があって、森首相の不人気がありながら、233議席を獲得した。しかし、都市部で自民党の苦戦は明らかとなり、逆に、民主党が野党の中で突出した存在となった。自民党政権は公共事業を乱発するだけで、不況脱出の政策をなにも出せなかった。この時期、いわゆる「加藤の乱」があったが、ここでは省略する。2001年に入ると、内閣支持率が一桁に落ち込み、参院選をひかえて、森首相は退任を表明した。

 任期満了でない自民党総裁選は、国会議員と各県連代表各1名による投票によるとされていたが、前回の「密室談合」に批判が集まっていたので、各県連に3票を割りふり、各県連で党員による予備選挙を行うことになった。国会議員の中では、小泉純一郎橋本龍太郎が拮抗していたが、新しい選挙形式は、小泉の圧勝をもたらした。政策的には郵政民営化をはじめとする経済構造改革の小泉の訴えが、支持された。

 旧来の派閥力学に基づく総裁選とは無縁の運動で自民党総裁となった小泉は、組閣においても、派閥からの推薦を一切受け付けず、「一本釣り」の人選を貫いた。その特徴は、構造改革推進の柱として民間から経済学者の竹中平蔵(経済財政政策担当相)を起用したことに見られる。小泉政権は、「改革なくして成長なし」をスローガンにして、以後5年以上続いた。目指した方向は、「小さな政府」あるいは新自由主義的政策である。具体的には、公共事業費削減、福祉支出抑制、特殊法人改革(道路公団民営化、郵政民営化)、いわゆる三位一体改革(国と地方公共団体に関する行財政システムの3つの改革)、金融機関の不良債権処理など多岐にわたった。橋本行革が決めた内閣府設置、内閣官房強化などが実施されたのは2001年1月からで、小泉政権の出発と時を同じくしていた。これによって、トップダウンの改革が迅速に進められた。

 小泉政権の時代は、9.11米国での同時多発テロにより国際情勢が緊迫し、テロ対策特別措置法を成立させた。11月、インド洋に自衛隊の補給艦と護衛艦の派遣を行った。この時には、この自衛隊の海外派遣は集団的自衛権行使に当たるという懸念に対し、政府は、派遣は合憲であるとの立場をとった。2002年9月、小泉は電撃的に北朝鮮を訪問し、金正日総書記との首脳会談に臨み、北朝鮮が邦人拉致にかかわることを明らかにした。2年後、小泉首相は再度訪朝し、拉致被害者の一部帰国を認めさせた。野党側では、2001年参院選で低迷していた民主党は、局面打開のため、自由党との合流を模索し、紆余曲折の後、2003年9月に民主党による自由党の吸収が行われた。10月に衆院が解散され、総選挙で自民党は237議席を得たが、民主党が137議席を177議席に伸ばし、比例代表では民主党の票が自民党も票を凌駕した。2004年の通常国会では、年金制度改革が焦点となったが、17閣僚のうちの7閣僚の保険料未納が発覚し、混乱した。7月参院選が行われたが、年金問題に加え、イラクへの自衛隊派遣の是非も問われた。結果は、明らかに自民党の負けであった(民主50議席、自民49議席)。しかし、小泉は負けにめげず、党内外で反対の強い郵政民営化で勝負に出た。突出した集票力をもつ全国特定郵便局長会郵政族議員を敵にして、特に都市部での民営化賛成の世論の支持を頼りにした。2005年7月の衆院本会議で、大量の自民党造反議員が出たが、何とか通過させた。しかし、参院本会議採決で否決されてしまった。小泉は、この結果を政権への不信任と見なし、即座に衆院を解散した。いわゆる「郵政解散」である。自民党執行部は郵政民営化反対の議員を公認せず、逆に「刺客」として対抗馬を公認候補とした。9月に行われた投票で、自民党は大勝利を収め、法案は可決された。この本の著者は、小泉政権を時代の転換点と位置付けている。財政支出を切り詰め、国債発行を抑制し、金融機関の不良債権処理を行い、いわば戦後ひきずってきた体制改革を成功させた、とみる。さらに、これで一応の改革が終わり、社会から体制改革への機運が失われてしまった、としている。

 この本の著者は小泉改革を全面的にポジティブに捕らえているが、新しい改革が続くとは見ていない。また、新自由主義的政策の副作用として、「格差社会」の懸念にも言及しているが、実質的には論じていない。小林慶一郎(慶大教授・経済学)は、小泉政権の経済政策(特に不良債権処理)によって、株価上昇、国内総生産の回復、デフレ脱却など、明るい見通しができた、としている(朝日新聞2005年8月28日)。他にもこの頃の経済記事などで、マクロ経済はデフレ脱却を視野に入れつつ、足元なお拡大を続けている、などとしている(森重徹:ニッセイ基礎研究所)。もちろん、これらの論調で、小泉改革の副作用、例えば、諸国格差の増大、拝金主義などについても、論じている。政策の良し悪しは歴史が決めると言われるが、20年経ったいまこそ、それをしなければならないと思う。本書が扱うべきテーマからはずれるかもしれないが、もう少し論じてほしいところだ。

 今回はここまでにしておく。参考までに、小泉政権の時代、日本の経済がよくなった、とは言えないデータを添付しておく。どちらも、ネットですぐ出てくる図である。次回は、本書に述べられている、安倍政権にいたる経緯を紹介し、ブログのこの項を終えたい。

 

 

 

2024年3月2日投稿

前回からの続き

 中曽根が次の首班として指名したのは、田中派を割って経世会を旗揚げした竹下登だった。竹下は典型的な調整型政治家で、与党内だけでなく、野党議員や官僚にも顔が利いた。中曽根および大蔵省が税制改革の実現を託したのである。期待どおり、政府は1988年7月召集の国会に、消費税導入を含む税制改革関連法案を提出した。同じころ、リクルートコスモス社の未公開株譲渡の問題が勃発し、混乱する中、11月税制関連法案が衆議院を通過した。1989年1月、昭和天皇が没され、平成天皇が即位された。天皇朝見の儀で、「憲法を守る」と発言された。3月には、竹下首相のパーティー券2千万円分リ社の購入が発覚、85~87年り社から1億5100万円の資金提供が公になった。竹下首相はこれらの責任を取り、4月に退陣を表明した。リ社からの資金提供を受けたのは、中曽根前首相を含む40名以上の国会議員に及んだ。ところが、

これだけ疑惑が広がっても、起訴された国会議員は2名だけだったので、国民の政治不信は頂点に達した。中曽根派の宇野宗佑が後任に選ばれた。しかし、宇野の芸子遊びスキャンダルが報道され、消費税導入、リクルート事件、牛肉・オレンジの輸入

自由化の負荷があり、自民党参院選過半数を割り、宇野は2か月で退陣となった。

 一方、80年代は、日本製品が世界に広まり、国内での繁栄の基盤作成に寄与した。しかし、その反面、米国をはじめとする世界各国の産業構造を破壊するとの非難を浴びるようになった。例えば、85年9月には、米国が主導して「プラザ合意」が締結され、円高ドル安誘導が行われた。米国はPCやテレビに報復関税を課すなどなどの制裁が発動された(1987年4月)。さらに、89年5月、日本は米通商法スーパー301条に基づく「不公正貿易国」に認定された。こうした世界の壁は、日本の産業(農業を含め)構造に変革をもたらし、そのひずみは後々まで及んでいる。

 本書では、1990年から2000年代までを、「改革の時代」としている。つまり、政治は保守vs革新の時代でなく、守旧派vs改革派の時代に代わったとしている。実質的キングメーカであった経世会竹下派)は、宇野の後任として海部俊樹(河本派)を選んだ。竹下派小沢一郎を幹事長に、橋本竜太郎を蔵相にし、当時としては強力な布陣をしいた。1990年の衆院選に、自民党は286議席を得て、安定したかにみえた。しかし、今度は国際的危機に直面した。

 外圧の一つは貿易摩擦問題であった。外国資本の日本進出の障害として大規模小売店舗法の緩和が要求された。90年8月に勃発した湾岸危機も政権を揺るがした。イラクによるクウェート侵攻は、フセイン政権に対し米国などは軍事的圧力を加えた。経済大国であり中東石油に依存する日本にはそれなりの対応が求められ、米国からは自衛隊の派遣を求められた。このとき、国会では紛争地域への自衛隊派遣など想定外のことで、海部政権は多国籍軍への資金提供をする一方、にわか作りの「国連平和協力法案」を10月の国会に提出したが、あっけなく廃案となった。なお、日本は物資輸送を行う2艘の中東貢献船を派遣した。また、停戦後のこととはいえ、1991年4月、機雷除去のため海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣した。また、後日、宮沢政権において、自民党公明党民社党と協議して、国連平和維持活動(PKO)協力法を制定した(1992年)。

 湾岸危機がわが国の政治に与えた影響は、「決められない政治」という弱点を明らかにした点である。国際秩序の維持に貢献するためには、強いリーダーシップを発揮できる政治体制が必要と考えられるようになった。折しも政治浄化を目的として湧き上がっていた政治改革運動に、新たな意味づけと推進力を与えた。従来の企業・団体の政治家個人への献金を認める政治資金制度や中選挙区制は、政治腐敗の元凶であるだけでなく、大政党の派閥分断を招き、政権中枢のリーダーシップを妨げているので、改めるべきである、と(政権党の内部で)みなされるようになった。

 本書には、バブル期とその時期の世界情勢の激動についての記述がないので、少し説明しておく。1980年から84年の公定歩合は6.1%だったが、国内需要を喚起しようと、85年から89年は平均3.4%まで引き下げられた。この金利引き下げが誘導したのがバブル経済で、市中では、土地ブームや過剰投資に明け暮れた(竹下内閣と同改造内閣の時期に相当)。同年3月に落成式を迎えた東京都新庁舎はバブルの象徴となった。しかし、バブルは土地ころがしや過剰投資を生み、その崩壊が実体経済に壊滅的損傷を与えるリスクがあるので、1989年金融政策転換(公定歩合の引き上げ)と翌年総量規制(銀行の不動産投資を規制する)が実施された。なお、89年4月に3%消費税が実施された。バブル崩壊後、1991年から93年は経済成長率がほぼゼロになった。

 91年11月に発足した宮沢内閣は竹下派の人材が多用された。1992年の参院選は、PKO問題の審判の場となったが、自民党は低投票率に助けられた。国際貢献についての議論が国民に浸透しなかったのは、リーダーシップ議論が空論だったことの証明かもしれない。この参院選で、細川護熙が立ち上げた日本新党(1992年5月)から立った小池百合子が注目をあびた。ここで、東京佐川急便事件、竹下派会長の金丸が5億円のヤミ献金を受けていたことが発覚し、議員辞職(後に逮捕)することになった。これが元になり、竹下派は分裂することになった。キーマンは小沢一郎で、小沢系(羽田派)と反小沢系に分かれた。宮沢内閣は政治改革の柱として、現行の中選挙区制度を廃止して、小選挙区制度に変えることを目指した。しかし、小選挙区制度にも複数の案があり、混乱をきわめた。野党が衆議院に内閣不信任案を提出した。これに羽田派が賛成し、可決されてしまった。当然、衆議院は解散となったが、自民党から鳩山由紀夫らが離党し、「新党さきがけ」を立ち上げた。小沢らも離党し、「新政党」を旗揚げした。こうして、自民党は選挙前に、議席過半数を割った。本書の著者は、この時点をもって「形式的の意味での55年体制の終点」(1993年7月)としている。この2年前(1991年12月)、ソ連邦の崩壊があったことも日本の政情に多様な影響を与えたと思われる。

 1993年7月の衆院選は、自民党は割れたといっても223議席を取った。新生党55、日本新党が35議席社会党70議席(選挙前のほぼ半数)だった。この結果、

日本新党の細川が首班とする、7党連立の政権となった。細川内閣は発足時70%の高支持率を得た。細川内閣にとって最大の課題は政治改革であった。しかし、法案作成の段階から寄合所帯の政権で、意見がまとまらず、細川は自民党河野洋平が総裁となっていた)の賛成をとりつけるために、大政党に有利な小選挙区比例代表並立制導入と政党交付金の導入(政党以外をへの企業団体献金禁止の代わり)を柱とする政治改革法案をまとめた。この法案は1994年3月公布されたが、その前に、細川首相は辞意を表明していた。その理由は、唐突に国民福祉税(消費税を実質7%に引き上げるという小沢・大蔵省肝いりの政策)の導入を打ち出し、連立内閣内で猛反発を受け、ただちに撤回するという失態を犯したこと。また、クリントン大統領との日米包括的経済協議が物別れに終わった責任。さらに、細川自身の金銭問題(東京佐川急便からの借金)が発覚し、金銭的にクリーンなイメージに傷がついた、ことなどである。代わって羽田内閣が発足したが、短命に終わった。

 野党に下った自民党は、竹下や野中広務らが水面下で工作し、社会党村山富市を首班とする「自社さ」連立政権が樹立した(1994年6月)。村山首相は、社会党の従来の方針(非武装中立)を転換し、自衛隊合憲、日米安保条約の堅持の方針を表明した。また、消費税を3%から5%にすることを決めた。一方、自民党も自主憲法制定を取り下げた(95年3月の党大会の新綱領)。自社の接近により、内閣は国会内では安定しているように見えたが、国民の支持はかならずしも高くはなかった。しかも、阪神淡路大震災(95年1月)や地下鉄サリン事件(3月)によって社会的に混乱が生じ、政権の対応が国民の信頼感を失わせた。この間、政権からはずれていた国会議員を中心にして、新進党の結党が行われた(94年12月)新進党は衆参両院議員214名を擁した。村山政権の間、次期首相は自民党から出るものと、党も周辺も了解していたので、95年9月の総裁選は首相を決める選挙であった。橋本龍太郎小泉純一郎を制して総裁になった。96年1月、村山は伊勢神宮参拝の後、退陣を表明し、橋本に自社さ連立政権の首相の座を譲った。

 橋本総理はモンデール駐日米国大使と普天間基地県内移転と全面返還で合意した(96年9月)。しかし、移転先辺野古の問題で実際の移転・基地全面返還がいつになるかは不明である。なお、菅直人鳩山由紀夫などにより、民主党が結成された(9月)。バブル崩壊の結果、多額の不良債権を抱えていた住宅記入専門会社(住専)への公的資金6850億円の投入が社会的に大問題となった。橋本は「行革のプロ」を自認していたように、行政改革会議を設置し、自ら会長として主導した。その結果、中央省庁等改革基本法が成立し(98年6月)、次年度から中央官庁の数がぼぼ半減されるとともに、内閣府を設置した。また、村山内閣のときに決めた消費税5%を実施し、2兆円の特別減税を打ち切り、医療費の自己負担額を上げた。2003年度までに、赤字国債発行をゼロにし、公共事業を削減するなど、大蔵省主導の政策を続けた。こうした健全財政を目指す政策は、経済にマイナスに働き、97年度のGDPは前年比-0.7%となった。こうした政策は国民の支持をえられず、98年7月の参院選で、自民党は惨敗し、橋本首相は政権の座を下りた。

 代わった小淵恵三首相は、新政権を「経済再生内閣」と位置づけ、元首相の宮沢を蔵相に、元通産官僚の堺屋太一を経企庁超過に起用して、経済の立て直しに臨んだ。国債発行額の膨張をおそれない小淵の積極経済政策は、当面の景気浮揚に寄与した。また、日銀は短期金融市場の金利をゼロにし、景気テコ入れを試みた。このとき、自民党参議院過半数議席を持たなかった。いわゆる「ねじれ国会」である。そのため、日本長期信用銀行の処理案では、野党案を呑まざるをえなかった。そこで生まれたのが、自民党自由党小沢一郎代表)、公明党の協力体制である。「ねじれ」が解消され、通信傍受法案や国旗国歌法案など、55年体制期であれば大論争になったはず法案が成立した。99年7月に憲法調査会(後の憲法審査会)を置く法改正が行われたが、従来であれば改憲反対の立場の民主党は、この法改正に賛成した。また、地方分権一括法を成立させ、国と地方の役割分担を明確にした。小淵は自民党総裁選で再選され、公明党が入閣に応じ、自公政権の始まりとなった。ところが、2000年4月、小淵が病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。この小淵の死の直前、自自公政権から自由党が抜けていた。

 

今回は、ここまでにしておく。はじめは、2回で「戦後日本政治史」を終える予定だったが、いまの政治とのかかわりを調べたりしているうちに、長くなってしまった。次回は、小泉旋風から始める。

 

2024年2月25日投稿

前回からの続き

金権政治に代わったのは、クリーンの・イメージの三木武夫であった。三角大福から角が抜けて、「大福」間の激しい対立から、副総裁・椎名悦三郎の裁定で、三木になったいきさつがある。三木は企業献金全廃を目指していたが、与党内での力関係から無理で、なんとか政治資金規正法改正(抜け道だらけの寄付制限、収支公開を柱とする)を成立させた。1976年2月、ロッキード事件が発覚し大混乱の中、7月、前総理田中角栄が逮捕された。この年、河野洋平らによる新自由クラブの発足があった。

話が前後するが、1975年は労働運動の転換点となった。国労全電通全逓など3公社5現業労働組合の連合体である公労協が、スト権を要求してストを行ったが国民の支持を得られず、大敗北となった。時代を読めなかった組合側の退潮は、以後の経営者側の緊張感を失わせ、後日の経済後退の基となったようだ。別の意味で、政府と企業経営者側に警鐘を鳴らした論文「日本の自殺」が、文芸春秋1975年2月号に載った。繁栄を誇った古代ローマ帝国がほろびたのは、いわゆる「パンとサーカス」(詩人ウェルナリスが権力者から無償で与えられるパン(=食料)とサーカス(=娯楽)によって市民が満足して政治的に無関心になっている)が原因で、当時の日本も活力なき福祉国家に堕する、という趣旨である。本書は、この書を当時の保守系知識人や財界エリートの危機意識が集約的に表れている、としている。しかし、僕の見たところ、国を支配する者たちは国民を甘やかすな、という程度のものでしかない。ちなみに、この年に、戦後初めて赤字国債が発行された。

 1970年代後半から80年代は、日本経済の安定成長期にあった(経済成長率は年度平均で4.2%)。しかし、自民党内の党内闘争も含め、政治的には不安定で短期政権が続いた。まず、1976年12月、福田赳夫が首相に就任した。福田は景気回復と財政健全化の両方を目標にして、77年度予算編成に臨んだが、衆院予算委員会では、野党の委員数が与党を上回っており、政府予算案の修正(減税と社会保障費の増額など)に応じざるをえなかった。福田政権は、福田ドクトリン(軍事大国化を否定し、東南アジア諸国と相互信頼関係を築く)や北京での日中平和友好条約調印(1978年)など、アジア外交で成果をあげた。また、ロンドン・サミット(1977年)およびボン・サミット(1978年)では、日本は世界経済をけん引する機関車としての役割を担うべきだとされ、福田は内需拡大策を国際公約とし、積極経済政策をとった。なお、この本の著者は、政治家福田を非常に高く評価しているが、僕は、サミットで各国首脳の集団の後を、少し離れて、手を後ろに組んだ福田がとぼとぼ付いて行く姿しか思い浮かばない。政権運営に自信を持っていた福田は、日中平和友好条約締結を期に衆議院を解散して基盤を固める予定だったが、大平と田中角栄の策動によって、総裁予備選で敗れ去った。12月、大平正芳政権が誕生。福田は野に下り、安倍晋太郎などと政策集団「清和会」を立ち上げた。「小さな政府」を目指した大平内閣は財政再建に取り組み、一般消費税導入を進めようとした。野党は激しく反発し、内閣不信任案を提出した。大平は衆議院解散で応じたが、自民党追加公認を入れてようやく過半数に達した(新税導入は断念した)。こうしてなんとか発足した第二次大平内閣は、ソ連アフガニスタン侵攻(1979年12月)、それに伴うモスクワ・オリンピック・ボイコットなど、世界情勢の急変に直面して苦慮する中、社会党が内閣不信任案を提出した。福田らの自民党非主流派の採決欠席もあって、不信任案が可決されてしまった。大平は衆議院解散を行い、改選時期を迎えた参院と同時選挙になったが、選挙中に大平が急逝してしまった。こうして、弔い合戦になった同時選挙では、自民が圧勝した。この本によれば、「党内抗争のはてに、大平は死して自民党の「中興の祖」となった」。

 派閥闘争で疲弊していた自民党は、大平派のベテラン鈴木善幸を首班にすえた。鈴木は、選挙での大勝に浮かれて改憲論に盛り上がった保守派と距離をおいた政治を心がけた。しかし、行財政改革が必須の状況に直面しており、82年度には、各省庁の概算要求を前年度並み「ゼロシーリング」を打ち出さざるをえなかった。第二次臨時行財政調査会(第二臨調)設置し、小さい政府を目指した。3公社(国鉄、電電、専売)、とりわけ巨額な赤字を出していた国鉄の改革が急務となった。鈴木首相は比較的平穏な政治状況から、続投すると周囲から見られていたが、82年10月、中国訪問から帰国後、次期総裁選不出馬を表明した。

 82年11月、総裁予備選を制した中曽根康弘が首相に選ばれた。かつて、「青年将校」と呼ばれた中曽根の首相就任は、自民党内右派にとって待望の出来事であった。それを反映するように、靖国神社公式参拝や防衛費増額の主張などを行った。しかし、実際の政治は従来の自民党政治を踏襲することになった。例えば、1987年度の防衛着はGNPの1.004%とされているし、レーガン米国大統領から要求されたイラン・イラク戦争への自衛隊派遣は見送った。中曽根は国民の現状維持志向を読んでいたと思われる。一方で、三大公社の改革は、第二臨調を使って強力に推進した。中でも、国鉄は敗戦による帰国者の配属などで異常に膨張しており、しかも、運輸機関の全体の輸送に占める国鉄の分担率は、1950年の51%から、1970年の18%に減少していた。こうした状況に対し、国鉄の民営化という大ナタが振り下ろされた(国鉄改革関連法案の成立:1986年11月)。JR7社への移行にともない、1983年に24万人いた国労組合人は、1987年には6万人に激減した。これは、社会党=総評にとって大打撃であり、以後の日本の政局に大きな影響をおよぼした。この間、1986年5月、東京サミットを成功裏に負えた中曽根は、7月、衆参両院ダブル選挙で大勝した。この選挙で、中曽根自民党は従来の保守層だけでなく、都市部無党派層の支持を取り付けた。本書によれば、「中曽根が述べたように、55年体制はたしかに終わろうとしていた。しかしそれは、自民党支配の再強化どころか、政界全体を揺るがす激動の時代の幕開けを意味した」。

 ここで、このブログでは、今まであまり触れなかった社会党について簡単に言及したい。戦後の社会党は、労働運動に肩入れしてきた左派と中道路線の右派に分かれ、その活動も全く違っていた。左派は、60年の三池闘争の敗北で痛手を被ったが、社会党内ではむしろ勢力を伸ばし、66年には綱領的文書「日本における社会主義への道」を出した。右派であった西尾末広は、59年に党を割り、民主社会党を結成した。しかし、中道路線を目指した民社党は、その路線は現在も続いているが、存在感を示したことがない。一方、「構造改革」を主導していた江田三郎が一時国民的人気を獲得したが、左派が強かった同党の主流にはならなかった。さらに、安保政策に関しては、非武装中立論が信奉され続け、1969年の党大会では、社会党政権実現の暁には、日米安保条約を解消し、自衛隊の解体に着手する、との方針が示された。この時代、社会党の内部で、国民生活に密着した議論がなく、その退潮は当然のこととされる。この後、江田の離党を含めて内部抗争が激しくなったが、1977年参院選で27議席しかとれない大敗北を喫し、軌道修正せざるを得なかった。先の「社会主義への道」を見直し、1986年1月党大会において「日本社会党における新宣言」を採択し、西欧型の社会民主主義政党を目指すこととなった。しかし、非武装中立論は維持され、「自衛隊違憲だが、国会の議決に基づき法的に存在している」を打ち出した。その後、この意見はむしろ保守派に利用され、憲法9条は違憲だから、憲法改正を求める一つの根拠になっている。既に述べたように、1986年の衆参ダブル選挙で社会党は大敗北し、土俵際に追い詰められ、同年9月土井たか子を委員長に選び、踏みとどまろうとした。

 中曽根政権に話を戻す。ダブル選挙で圧勝した中曽根政権は盤石にみえたので、それを利用しようとしたのが大蔵省である。財政赤字を回復するために大型間接税を導入しようとした。直接税(所得税)は、964と言われたように、業種によって所得の把握に不公平があったからである。中曽根自身も政治家として税制改革に取り組もうとした。具体的には、1987年2月に売上税導入を含む税制改正法案を国会に提出した。しかし、同日選の際、中曽根は間接税導入を否定する発言をしており、公約違反とみなされた。野党だけでなく、与党内からも新税導入に反対の声があがるようになった。結局、3月の参院補選、4月の統一地方選挙において自民党は敗北し、売上税法案は廃案となった。自民党はこの敗北を引きずらず、秋には内閣支持率は回復し、中曽根は10月、総裁任期満了を迎えることができた。

 

 今回はここまでにする。以後、バブルおよび;バブル崩壊、非自民党政権誕生を経て、失われた30年、と続く。

2024年2月18日投稿

岸田総理も自ら認めているように、今の世の中には「政治不信」が充満している。もしかすると、これはわが国政治が大転換点に差し掛かっている兆しかもしれない。この機に、日本の戦後政治をおさらいしてみる必要を感じた。以下の書は、思い立って去年買ったものだが、今回再読して日本政治の未来を考えてみた。

 

境家史郎「戦後日本政治史」(中公新書

「あとがき」によると、著者は東大法学部で「日本政治」という科目の講義を担当しているが、本書はそのまとめである。一読して、僕が感じたのは、「政治」の講義とはこういうものなのか、という不満足感である。著者は意識してしたのだろうが、国際情勢の記述が少ない。また、経済はときの政治に大きな影響を及ぼしてきたはずであるが、「経済」についての記述も少ない。その一方で、日本の「政治の流れ」については、過不足なく書いてあるので、「戦後政治全体の筋書き」を理解することができる。著者が書いているように、政治は物語ではないので、ストーリーなど存在するわけではないが、自分なりの「筋書き」を読まないと流れを把握できない。まちがいなく、今日の政治もこの流れの上にある。

 僕は1937年生まれなので、戦後の混乱は実体験で知っている。「食料メーデー」や「2・1ゼネスト」、片山内閣、吉田ワンマン体制など、家では朝日・毎日・読売の三大新聞を購読しており、これらの記事が連日のように一面を飾っていた。もちろん、小学生の僕が記事を読んでもわからなかった。記事をある程度理解できるようになったのは、僕が中学生になった、朝鮮戦争のときからである。朝鮮戦争がその後の日本の政治経済の基盤を作ったとも言える。

 戦後のインフレ、1945年8月から1949年の間で、約70倍まで物価が上昇した。このハイパーインフレを抑えるために、いわゆるドッジ・ラインによる金融引き締めが行われた。しかし、経済は安定したように見えたが、代わりに失業者の急増など不況の波に襲われ、社会的混乱を引き起こした。こうした中での朝鮮戦争は、わが国に特需をもたらし、一部産業、例えば繊維産業などの好転をみた。しかし、対中貿易禁止令などによって、原材料の高騰のため生産が伸びない業種も少なくなかった。本書では、ドッジ・ラインは物価安定と企業体質の改善もたらし、以後の経済成長軌道に乗るきかっけとなった、としている。ちなみに、1ドル360円という単一為替レートはこのとき決まった。

 本書に書いてあるように、朝鮮戦争は米国の日本占領政策に根本的変換をもたらした。それまで軍国主義の復活をおそれた米国は、日本の再軍備に消極的であったが、朝鮮戦争がきっかけとなり、日本の再軍備をうながし、戦争放棄を定めた憲法9条の改正をせまるようになった。これに応じて、吉田内閣は警察予備隊の設置を行ったが、本格的軍隊の再建は経済復興の妨げになるとして慎重であった。第三次吉田内閣の最大の課題は、占領状態の終結、すなわち講和条約の締結であった。単独講和か全面講和かの対立を経て、1951年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、西側諸国との条約が調印された。日米安保条約に基づき、米軍基地は国内各地に維持されることになった。しかし、沖縄は1972年に返還されるまで、占領下が続いた。吉田内閣も末期になると求心力がなくなり、鳩山らが自由党を離党し、左右社会党らが提出した内閣不信任案が可決され、いわゆる「バカヤロー解散」があった(1953年)。また、造船疑獄という贈収賄事件が起こり、吉田の側近佐藤栄作自由党幹事長が逮捕されそうになり、法務大臣の指揮権発動で救われたりした。

ここから、鳩山内閣による日ソ共同宣言、国連への加盟を経て、自由党民主党の合流(自由民主党の誕生)および右派・左派社会党の統一によって55年体制の基盤が出来上がった。55年体制とは、自民党の安定多数(その後の経済発展の基盤)と社会党議席2/3以上を確保(憲法改正はできない)している状況を指す。自民党の安定多数によって、いわゆる「逆コース」、日本の戦前体制へ回帰させようとする運動が高まり、「自主憲法」制定論が広まった。しかし、社会党が2/3以上の議席を占めているので、改憲の発議すらできない。しかも、60年安保の混乱によって、「逆コース」の先頭に立っていた岸首相が退陣し、保守政治の転換が起こった。大学時代、60年安保にかかわっていた僕は、「逆コース」から高度成長へ転換は、いろいろな面で実感できた。本書の記述にあるが、岸内閣は社会保障の基盤作りとして、国民健康保険法改正(1958年)および国民年金法制定(1959年)を行った。

 こうした中で、登場したのが池田勇人で、1960年閣議決定された国民所得倍増計画である。オリンピックを挟んで、国民所得は政府の計画以上のスピードで増えた。僕は、1964年大学院博士課程1年のとき、腎結核に罹り、右腎摘出手術を受ける大病をし、東京オリンピックのテレビも横浜市立大学付属病院の病室で観た。なんとか回復し、大阪の学会に参加したとき、はじめて新幹線に乗り、経済の成長を、身をもって感じた。本書では、景気拡大政策に批判的だった岸直系の福田赳夫が、国際収支の赤字拡大抑制や設備投資過剰の是正など、「安定成長論」を唱えたとある。福田は「党風刷新連盟」を立ち上げ、「派閥解消」など党近代化を迫った。この「党風刷新同盟」が後に「清和政策研究会」、さらに現代の安倍派になったのだから、皮肉なものである。池田は、吉田学校でのライバル佐藤栄作の挑戦を受けながら、総裁選で三選をはたした。しかし、がんに侵され、東京オリンピック後に退いた。後継総裁には、党人派河野一郎を退けた佐藤栄作がなった。この内閣で、大蔵大臣に就いたのが福田で、戦後初めて公債発行でオリンピック後の景気の刺激を行った。戦後の社会制度の基盤が整えられる中で、政治が清廉潔白であったわけではない。この時代の自民党総裁選では、投票権を有する議員や地方代議員に対し、醜い買収合戦が繰り広げられた。

 1964年11月に佐藤内閣が発足した。最大の課題は、沖縄返還交渉であった。佐藤は戦後の首相をして初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとって戦後が終わっていない」と述べた。日米間で問題となったのは、米軍の核兵器の取り扱いについてであった。佐藤内閣は、日本は非核兵器三原則を政策とするとしていたので、交渉は難航した。しかし、69年11月、佐藤が訪米してニクソン大統領と会談し、核兵器の「本土並み」を条件に交渉がまとまった。本書には書いてないが、当時米国はベトナム戦争の最中で、様々な問題を抱えており、それが交渉に影響したのは間違いない。後日、明らかになったように、様々な密約が交わされていた。我が国は、沖縄問題という負債をいまだに抱えたままであり、佐藤の言う「本土並み」は実現していないので、戦後はまだ続いていると言える。この交渉において、日本側が譲歩した案件に繊維産業の問題があり、その後の業界の衰退につながった。佐藤政権にとっての衝撃は1972年のニクソン大統領の訪中であった。僕と美智子は、1971年7月から米国に滞在していたので、そこでニュースで知った。さらに、ウォーターゲート事件やパリ協定に基づくベトナムからの米軍の完全撤退など、米国は混乱期にあった。しかし、戦争が終わったという安堵感が充満していたのも事実である(これで研究室仲間が徴兵され戦地に出されることなどがなくなって)

 池田を引き継いだ佐藤政権は7年8か月続いた。池田・佐藤政権によって出来上がった、吉田あるいは旧自由党の流れを汲む自民党の路線を「保守本流」と呼んでいる。本書によれば、保守本流の政治とは、経済中心主義、軽武装日米安保を基軸とし、憲法問題を未決のままに置くことで、当面の政治的安定性を優先する立場と言える。池田派に由来する宏池会は、保守本流を自認しているが、55年体制を担った自民党政権の基本的姿勢が「保守本流」といえる。

 本書では、高度成長期の革新運動について、かなりの紙面を割いている。例えば、社会党民社党の分離、革新自治体の誕生(美濃部都政など)、新左翼の誕生など。しかし、日本の政治を左右するものにはならなかったので、ここでは触れない。

 池田・佐藤政権の後を継いだのが、田中派(佐藤派を乗っ取った)、大平派(池田を継ぐ)、福田派(岸に由来)、中曽根派(河野一郎派だが、思想的には違う)、三木派の5大派閥だった。1972年7月の総裁選では、「三角大福」の4候補が立ったが、金にものを言わせた田中角栄が制した。田中は市民党内よりも一般大衆の受けがよく、政策についての決断が速かった。2月にニクソン訪中に合わせる形で、北京に飛び、日中国交正常化の合意を行った。中国が戦時賠償請求を放棄し、日米安保にふれない、という周恩来の大人の対応で合意した。尖閣問題は棚上げとなったが、後日石原慎太郎の攪乱に載せられた民主党内閣が国有化し(2012年)、いまだに日中間の最大のわだかまりとなっている。田中角栄は威勢のいい言動で人気があったが、地味な仕事もした。例えば、1973年を「福祉元年」とするように、年金の物価スライド制導入がなされ、社会保障関連予算は前年比29%増であった。しかし、最大のスローガンであった「列島改造論」が、第4次中東戦争と第一次石油ショックによって腰砕けになった。さらに、文芸春秋の1974年12月号に載った、立花隆田中角栄の研究」によって、公共工事予定地の転売による錬金術が糾弾され、田中は失脚することになった。

 

ここで大体半分ぐらい来たので、ブログにアップします。引き続き、後半を書きます。

 

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原核生物プリオン

プリオンは様々な真核生物、すなわち動物、ショウジョウバエ、Aplysia、そしてArabidopsisにもその存在が報告されている。では、原核生物はどうか。

 プリオン検索のためのapplicationがKingとLindquistの研究グループによって開発されている(文献44)。PLAAC (prion-like amino acid composition)といい、検索しようとするアミノ酸配列を入力すると、自動的にスコア付けを行う。Yuan & Hochschild(文献45)はこのツールを利用して、60,000の細菌のゲノムを検索し、candidate prion-forming domains (cPrDs)を同定し、もっとも有望なcPrDとしてClostridium botulinum E3 strain Alaska E43のthe transctiption termination factor Rho (Cb-Rho)にある68アミノ酸配列を選んだ。Rhoはhexameric helicaseで、RNA polymeraseによる転写の終結因子である。cPrDをを¥含むCb-Rho領域をE. coliに発現させると、amyloid系の会合物を作る。また、cPrDは酵母Sup35のPrDと入れ替えたキメラタンパク質は、酵母細胞中でSup35と同等の機能を発揮することが示された。

 Cb-Rhoが大腸菌中で、プリオン構造と非プリオン構造の間の遷移を示すかどうか調べた。レポーターlacZの前にrho-dependent terminator tR1を置いて、rhoが発現するとlacZの発現が減るシステムで、rhoの発現量を見る。Cb-Rhoはプリオン状のときはterminator活性が減るので、lacZの発現が増す、という仕組みである。

 大腸菌のrhoをCb rhoで代替できないので、Cb-rho NTD(N端半分)とE. coli-rho CTD(C端半分)のキメラで代用したが、置換株は生育が遅かった。そこで、さらにキメラrhoをプラスミッドにのせて入れた。このややこしい株をプレートすると、lacを高発現するコロニーと低発現するコロニーが出現した。この結果は、Cb-rhoを有する株がプリオン状態をとるコロニーと非プリオン状態をとるコロニーの両方を含むことを示している。Lacを高発現するコロニーの細胞の抽出液にはRhoタンパク質の凝集体が認められた。Cb-rhoがプリオン状態のコロニーをresuspendしてプレートすると、大部分のコロニーはCb-rhoがプリオン状態を維持していた(120世代以上安定に維持される)。しかし、酵母Hsp104のorthologであるdisaggregase ClpBを追加発現させると、lacの発現が顕著に減少した(Cb-rho活性が回復した)。

 酵母のSup35がプリオン状態のとき、多くの表現形質に変化が認められた。同じように、Cb-rhoがプリオン状態のとき、転写終結活性の減少によって、大腸菌のtranscriptomeに変化が誘導されることが予想される。しかし、この重要極まりない解析は、まだ著者たちは行っていない。

44. Lancaster, A K et el. Bioinformatics 30: 2501 (2014).

45. Yuan, A H & Hochschild, A. Science 355: 198 (2017)

240208投稿

酵母発現形質がプリオン依存性から非依存性に変わる

これまでに、Lindquistたちの研究によって、次のことが明らかになった。すなわち、プリオンによって新しい多様な表現形質が作られる。これはepigeneticな変化であるが、genetic backgroundを変えることによって、プリオンに依存しない遺伝的形質に変化し、安定に子孫に伝達される。[psi-]株は10-6の頻度で、自動的に[PSI+]に変換するし、[psi-]が増殖に適さない環境変化に遭遇したとき、微量の「PSI+]細胞が新環境に適していれば、それらは生き残ることができる。[PSI+]は適応の範囲を拡張しているといえる。[PSI+]の他にも多数のプリオンが研究室で使われている酵母で見出されており、[PSI+]と同じように、多様な表現形質の発現にかかわっている。しかし、これまで、[PSI+]のプリオンなどは、野生株の酵母には、ほとんど見出されていない。

 そこで、690の野生株をスクリーニングして10株にSup35タンパク質がプリオン状で存在する([PSI+]である)ことを見出した(文献43)。スクリーニングはプリオン凝集体がionic detergentsに溶けない性質を利用し、anti-Sup35抗体で検出した。これらの10種の[PSI+]株が必ずしも近縁の株ではないことも確認した。さらに、[PSI+]株と同定された細胞をグアニジン塩酸処理、あるいはHsp104のdominant negative変異の導入によって、amyloidが消失するので、野生株の[PSI+]がプリオンであることを確認した。[RNQ+]はこれまでに、唯一知られていた、野生株のプリオンであるが、[PSI+]株は、常に同時に[RNQ+]であった。[RNQ+]はprion-inducing factorとして働いている。

 以上のような手法で見出した[PSI+]野生株を、いろいろな炭素源、高浸透圧、pH変化、抗菌剤存在下などでの増殖を、同じ野生株の[psi-]と比較してみると、異なる場合がかなり認められた。これは、酵母の実験室用の株で得られた知見とまったく同じであった。

 多様なgenetic backgroundを有する様々な実験株を交配することによって、[PSI+]依存性の表現形質が[PSI+]非依存性に変わることは、すでに紹介した(文献35、42)。例えば、野生株UCD978は予期したように、かなりのheterozygosityを有し、DNA配列からpolymorphicであることが示された。30個のhaploidコロニーについて、agar platesに対する接着性を調べた。5コロニーが[PSI+]依存性接着を示し、20コロニーが[PSI+]に関係なく接着性を示さず、残る5コロニーは[psi-]で接着性を示した。この結果は、野生株UCD978は自然界において遺伝的な多様性を有し、いくつかの遺伝子のpolymorphismsがあると考えられる。また、プリオンがgenotypeとphenotypeの関係を変化させることも明らかになった。

43: Halfmann, R et al. Nature 482: 363 (2012)