2024年3月2日投稿

前回からの続き

 中曽根が次の首班として指名したのは、田中派を割って経世会を旗揚げした竹下登だった。竹下は典型的な調整型政治家で、与党内だけでなく、野党議員や官僚にも顔が利いた。中曽根および大蔵省が税制改革の実現を託したのである。期待どおり、政府は1988年7月召集の国会に、消費税導入を含む税制改革関連法案を提出した。同じころ、リクルートコスモス社の未公開株譲渡の問題が勃発し、混乱する中、11月税制関連法案が衆議院を通過した。1989年1月、昭和天皇が没され、平成天皇が即位された。天皇朝見の儀で、「憲法を守る」と発言された。3月には、竹下首相のパーティー券2千万円分リ社の購入が発覚、85~87年り社から1億5100万円の資金提供が公になった。竹下首相はこれらの責任を取り、4月に退陣を表明した。リ社からの資金提供を受けたのは、中曽根前首相を含む40名以上の国会議員に及んだ。ところが、

これだけ疑惑が広がっても、起訴された国会議員は2名だけだったので、国民の政治不信は頂点に達した。中曽根派の宇野宗佑が後任に選ばれた。しかし、宇野の芸子遊びスキャンダルが報道され、消費税導入、リクルート事件、牛肉・オレンジの輸入

自由化の負荷があり、自民党参院選過半数を割り、宇野は2か月で退陣となった。

 一方、80年代は、日本製品が世界に広まり、国内での繁栄の基盤作成に寄与した。しかし、その反面、米国をはじめとする世界各国の産業構造を破壊するとの非難を浴びるようになった。例えば、85年9月には、米国が主導して「プラザ合意」が締結され、円高ドル安誘導が行われた。米国はPCやテレビに報復関税を課すなどなどの制裁が発動された(1987年4月)。さらに、89年5月、日本は米通商法スーパー301条に基づく「不公正貿易国」に認定された。こうした世界の壁は、日本の産業(農業を含め)構造に変革をもたらし、そのひずみは後々まで及んでいる。

 本書では、1990年から2000年代までを、「改革の時代」としている。つまり、政治は保守vs革新の時代でなく、守旧派vs改革派の時代に代わったとしている。実質的キングメーカであった経世会竹下派)は、宇野の後任として海部俊樹(河本派)を選んだ。竹下派小沢一郎を幹事長に、橋本竜太郎を蔵相にし、当時としては強力な布陣をしいた。1990年の衆院選に、自民党は286議席を得て、安定したかにみえた。しかし、今度は国際的危機に直面した。

 外圧の一つは貿易摩擦問題であった。外国資本の日本進出の障害として大規模小売店舗法の緩和が要求された。90年8月に勃発した湾岸危機も政権を揺るがした。イラクによるクウェート侵攻は、フセイン政権に対し米国などは軍事的圧力を加えた。経済大国であり中東石油に依存する日本にはそれなりの対応が求められ、米国からは自衛隊の派遣を求められた。このとき、国会では紛争地域への自衛隊派遣など想定外のことで、海部政権は多国籍軍への資金提供をする一方、にわか作りの「国連平和協力法案」を10月の国会に提出したが、あっけなく廃案となった。なお、日本は物資輸送を行う2艘の中東貢献船を派遣した。また、停戦後のこととはいえ、1991年4月、機雷除去のため海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣した。また、後日、宮沢政権において、自民党公明党民社党と協議して、国連平和維持活動(PKO)協力法を制定した(1992年)。

 湾岸危機がわが国の政治に与えた影響は、「決められない政治」という弱点を明らかにした点である。国際秩序の維持に貢献するためには、強いリーダーシップを発揮できる政治体制が必要と考えられるようになった。折しも政治浄化を目的として湧き上がっていた政治改革運動に、新たな意味づけと推進力を与えた。従来の企業・団体の政治家個人への献金を認める政治資金制度や中選挙区制は、政治腐敗の元凶であるだけでなく、大政党の派閥分断を招き、政権中枢のリーダーシップを妨げているので、改めるべきである、と(政権党の内部で)みなされるようになった。

 本書には、バブル期とその時期の世界情勢の激動についての記述がないので、少し説明しておく。1980年から84年の公定歩合は6.1%だったが、国内需要を喚起しようと、85年から89年は平均3.4%まで引き下げられた。この金利引き下げが誘導したのがバブル経済で、市中では、土地ブームや過剰投資に明け暮れた(竹下内閣と同改造内閣の時期に相当)。同年3月に落成式を迎えた東京都新庁舎はバブルの象徴となった。しかし、バブルは土地ころがしや過剰投資を生み、その崩壊が実体経済に壊滅的損傷を与えるリスクがあるので、1989年金融政策転換(公定歩合の引き上げ)と翌年総量規制(銀行の不動産投資を規制する)が実施された。なお、89年4月に3%消費税が実施された。バブル崩壊後、1991年から93年は経済成長率がほぼゼロになった。

 91年11月に発足した宮沢内閣は竹下派の人材が多用された。1992年の参院選は、PKO問題の審判の場となったが、自民党は低投票率に助けられた。国際貢献についての議論が国民に浸透しなかったのは、リーダーシップ議論が空論だったことの証明かもしれない。この参院選で、細川護熙が立ち上げた日本新党(1992年5月)から立った小池百合子が注目をあびた。ここで、東京佐川急便事件、竹下派会長の金丸が5億円のヤミ献金を受けていたことが発覚し、議員辞職(後に逮捕)することになった。これが元になり、竹下派は分裂することになった。キーマンは小沢一郎で、小沢系(羽田派)と反小沢系に分かれた。宮沢内閣は政治改革の柱として、現行の中選挙区制度を廃止して、小選挙区制度に変えることを目指した。しかし、小選挙区制度にも複数の案があり、混乱をきわめた。野党が衆議院に内閣不信任案を提出した。これに羽田派が賛成し、可決されてしまった。当然、衆議院は解散となったが、自民党から鳩山由紀夫らが離党し、「新党さきがけ」を立ち上げた。小沢らも離党し、「新政党」を旗揚げした。こうして、自民党は選挙前に、議席過半数を割った。本書の著者は、この時点をもって「形式的の意味での55年体制の終点」(1993年7月)としている。この2年前(1991年12月)、ソ連邦の崩壊があったことも日本の政情に多様な影響を与えたと思われる。

 1993年7月の衆院選は、自民党は割れたといっても223議席を取った。新生党55、日本新党が35議席社会党70議席(選挙前のほぼ半数)だった。この結果、

日本新党の細川が首班とする、7党連立の政権となった。細川内閣は発足時70%の高支持率を得た。細川内閣にとって最大の課題は政治改革であった。しかし、法案作成の段階から寄合所帯の政権で、意見がまとまらず、細川は自民党河野洋平が総裁となっていた)の賛成をとりつけるために、大政党に有利な小選挙区比例代表並立制導入と政党交付金の導入(政党以外をへの企業団体献金禁止の代わり)を柱とする政治改革法案をまとめた。この法案は1994年3月公布されたが、その前に、細川首相は辞意を表明していた。その理由は、唐突に国民福祉税(消費税を実質7%に引き上げるという小沢・大蔵省肝いりの政策)の導入を打ち出し、連立内閣内で猛反発を受け、ただちに撤回するという失態を犯したこと。また、クリントン大統領との日米包括的経済協議が物別れに終わった責任。さらに、細川自身の金銭問題(東京佐川急便からの借金)が発覚し、金銭的にクリーンなイメージに傷がついた、ことなどである。代わって羽田内閣が発足したが、短命に終わった。

 野党に下った自民党は、竹下や野中広務らが水面下で工作し、社会党村山富市を首班とする「自社さ」連立政権が樹立した(1994年6月)。村山首相は、社会党の従来の方針(非武装中立)を転換し、自衛隊合憲、日米安保条約の堅持の方針を表明した。また、消費税を3%から5%にすることを決めた。一方、自民党も自主憲法制定を取り下げた(95年3月の党大会の新綱領)。自社の接近により、内閣は国会内では安定しているように見えたが、国民の支持はかならずしも高くはなかった。しかも、阪神淡路大震災(95年1月)や地下鉄サリン事件(3月)によって社会的に混乱が生じ、政権の対応が国民の信頼感を失わせた。この間、政権からはずれていた国会議員を中心にして、新進党の結党が行われた(94年12月)新進党は衆参両院議員214名を擁した。村山政権の間、次期首相は自民党から出るものと、党も周辺も了解していたので、95年9月の総裁選は首相を決める選挙であった。橋本龍太郎小泉純一郎を制して総裁になった。96年1月、村山は伊勢神宮参拝の後、退陣を表明し、橋本に自社さ連立政権の首相の座を譲った。

 橋本総理はモンデール駐日米国大使と普天間基地県内移転と全面返還で合意した(96年9月)。しかし、移転先辺野古の問題で実際の移転・基地全面返還がいつになるかは不明である。なお、菅直人鳩山由紀夫などにより、民主党が結成された(9月)。バブル崩壊の結果、多額の不良債権を抱えていた住宅記入専門会社(住専)への公的資金6850億円の投入が社会的に大問題となった。橋本は「行革のプロ」を自認していたように、行政改革会議を設置し、自ら会長として主導した。その結果、中央省庁等改革基本法が成立し(98年6月)、次年度から中央官庁の数がぼぼ半減されるとともに、内閣府を設置した。また、村山内閣のときに決めた消費税5%を実施し、2兆円の特別減税を打ち切り、医療費の自己負担額を上げた。2003年度までに、赤字国債発行をゼロにし、公共事業を削減するなど、大蔵省主導の政策を続けた。こうした健全財政を目指す政策は、経済にマイナスに働き、97年度のGDPは前年比-0.7%となった。こうした政策は国民の支持をえられず、98年7月の参院選で、自民党は惨敗し、橋本首相は政権の座を下りた。

 代わった小淵恵三首相は、新政権を「経済再生内閣」と位置づけ、元首相の宮沢を蔵相に、元通産官僚の堺屋太一を経企庁超過に起用して、経済の立て直しに臨んだ。国債発行額の膨張をおそれない小淵の積極経済政策は、当面の景気浮揚に寄与した。また、日銀は短期金融市場の金利をゼロにし、景気テコ入れを試みた。このとき、自民党参議院過半数議席を持たなかった。いわゆる「ねじれ国会」である。そのため、日本長期信用銀行の処理案では、野党案を呑まざるをえなかった。そこで生まれたのが、自民党自由党小沢一郎代表)、公明党の協力体制である。「ねじれ」が解消され、通信傍受法案や国旗国歌法案など、55年体制期であれば大論争になったはず法案が成立した。99年7月に憲法調査会(後の憲法審査会)を置く法改正が行われたが、従来であれば改憲反対の立場の民主党は、この法改正に賛成した。また、地方分権一括法を成立させ、国と地方の役割分担を明確にした。小淵は自民党総裁選で再選され、公明党が入閣に応じ、自公政権の始まりとなった。ところが、2000年4月、小淵が病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。この小淵の死の直前、自自公政権から自由党が抜けていた。

 

今回は、ここまでにしておく。はじめは、2回で「戦後日本政治史」を終える予定だったが、いまの政治とのかかわりを調べたりしているうちに、長くなってしまった。次回は、小泉旋風から始める。