2024年2月18日投稿

岸田総理も自ら認めているように、今の世の中には「政治不信」が充満している。もしかすると、これはわが国政治が大転換点に差し掛かっている兆しかもしれない。この機に、日本の戦後政治をおさらいしてみる必要を感じた。以下の書は、思い立って去年買ったものだが、今回再読して日本政治の未来を考えてみた。

 

境家史郎「戦後日本政治史」(中公新書

「あとがき」によると、著者は東大法学部で「日本政治」という科目の講義を担当しているが、本書はそのまとめである。一読して、僕が感じたのは、「政治」の講義とはこういうものなのか、という不満足感である。著者は意識してしたのだろうが、国際情勢の記述が少ない。また、経済はときの政治に大きな影響を及ぼしてきたはずであるが、「経済」についての記述も少ない。その一方で、日本の「政治の流れ」については、過不足なく書いてあるので、「戦後政治全体の筋書き」を理解することができる。著者が書いているように、政治は物語ではないので、ストーリーなど存在するわけではないが、自分なりの「筋書き」を読まないと流れを把握できない。まちがいなく、今日の政治もこの流れの上にある。

 僕は1937年生まれなので、戦後の混乱は実体験で知っている。「食料メーデー」や「2・1ゼネスト」、片山内閣、吉田ワンマン体制など、家では朝日・毎日・読売の三大新聞を購読しており、これらの記事が連日のように一面を飾っていた。もちろん、小学生の僕が記事を読んでもわからなかった。記事をある程度理解できるようになったのは、僕が中学生になった、朝鮮戦争のときからである。朝鮮戦争がその後の日本の政治経済の基盤を作ったとも言える。

 戦後のインフレ、1945年8月から1949年の間で、約70倍まで物価が上昇した。このハイパーインフレを抑えるために、いわゆるドッジ・ラインによる金融引き締めが行われた。しかし、経済は安定したように見えたが、代わりに失業者の急増など不況の波に襲われ、社会的混乱を引き起こした。こうした中での朝鮮戦争は、わが国に特需をもたらし、一部産業、例えば繊維産業などの好転をみた。しかし、対中貿易禁止令などによって、原材料の高騰のため生産が伸びない業種も少なくなかった。本書では、ドッジ・ラインは物価安定と企業体質の改善もたらし、以後の経済成長軌道に乗るきかっけとなった、としている。ちなみに、1ドル360円という単一為替レートはこのとき決まった。

 本書に書いてあるように、朝鮮戦争は米国の日本占領政策に根本的変換をもたらした。それまで軍国主義の復活をおそれた米国は、日本の再軍備に消極的であったが、朝鮮戦争がきっかけとなり、日本の再軍備をうながし、戦争放棄を定めた憲法9条の改正をせまるようになった。これに応じて、吉田内閣は警察予備隊の設置を行ったが、本格的軍隊の再建は経済復興の妨げになるとして慎重であった。第三次吉田内閣の最大の課題は、占領状態の終結、すなわち講和条約の締結であった。単独講和か全面講和かの対立を経て、1951年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、西側諸国との条約が調印された。日米安保条約に基づき、米軍基地は国内各地に維持されることになった。しかし、沖縄は1972年に返還されるまで、占領下が続いた。吉田内閣も末期になると求心力がなくなり、鳩山らが自由党を離党し、左右社会党らが提出した内閣不信任案が可決され、いわゆる「バカヤロー解散」があった(1953年)。また、造船疑獄という贈収賄事件が起こり、吉田の側近佐藤栄作自由党幹事長が逮捕されそうになり、法務大臣の指揮権発動で救われたりした。

ここから、鳩山内閣による日ソ共同宣言、国連への加盟を経て、自由党民主党の合流(自由民主党の誕生)および右派・左派社会党の統一によって55年体制の基盤が出来上がった。55年体制とは、自民党の安定多数(その後の経済発展の基盤)と社会党議席2/3以上を確保(憲法改正はできない)している状況を指す。自民党の安定多数によって、いわゆる「逆コース」、日本の戦前体制へ回帰させようとする運動が高まり、「自主憲法」制定論が広まった。しかし、社会党が2/3以上の議席を占めているので、改憲の発議すらできない。しかも、60年安保の混乱によって、「逆コース」の先頭に立っていた岸首相が退陣し、保守政治の転換が起こった。大学時代、60年安保にかかわっていた僕は、「逆コース」から高度成長へ転換は、いろいろな面で実感できた。本書の記述にあるが、岸内閣は社会保障の基盤作りとして、国民健康保険法改正(1958年)および国民年金法制定(1959年)を行った。

 こうした中で、登場したのが池田勇人で、1960年閣議決定された国民所得倍増計画である。オリンピックを挟んで、国民所得は政府の計画以上のスピードで増えた。僕は、1964年大学院博士課程1年のとき、腎結核に罹り、右腎摘出手術を受ける大病をし、東京オリンピックのテレビも横浜市立大学付属病院の病室で観た。なんとか回復し、大阪の学会に参加したとき、はじめて新幹線に乗り、経済の成長を、身をもって感じた。本書では、景気拡大政策に批判的だった岸直系の福田赳夫が、国際収支の赤字拡大抑制や設備投資過剰の是正など、「安定成長論」を唱えたとある。福田は「党風刷新連盟」を立ち上げ、「派閥解消」など党近代化を迫った。この「党風刷新同盟」が後に「清和政策研究会」、さらに現代の安倍派になったのだから、皮肉なものである。池田は、吉田学校でのライバル佐藤栄作の挑戦を受けながら、総裁選で三選をはたした。しかし、がんに侵され、東京オリンピック後に退いた。後継総裁には、党人派河野一郎を退けた佐藤栄作がなった。この内閣で、大蔵大臣に就いたのが福田で、戦後初めて公債発行でオリンピック後の景気の刺激を行った。戦後の社会制度の基盤が整えられる中で、政治が清廉潔白であったわけではない。この時代の自民党総裁選では、投票権を有する議員や地方代議員に対し、醜い買収合戦が繰り広げられた。

 1964年11月に佐藤内閣が発足した。最大の課題は、沖縄返還交渉であった。佐藤は戦後の首相をして初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとって戦後が終わっていない」と述べた。日米間で問題となったのは、米軍の核兵器の取り扱いについてであった。佐藤内閣は、日本は非核兵器三原則を政策とするとしていたので、交渉は難航した。しかし、69年11月、佐藤が訪米してニクソン大統領と会談し、核兵器の「本土並み」を条件に交渉がまとまった。本書には書いてないが、当時米国はベトナム戦争の最中で、様々な問題を抱えており、それが交渉に影響したのは間違いない。後日、明らかになったように、様々な密約が交わされていた。我が国は、沖縄問題という負債をいまだに抱えたままであり、佐藤の言う「本土並み」は実現していないので、戦後はまだ続いていると言える。この交渉において、日本側が譲歩した案件に繊維産業の問題があり、その後の業界の衰退につながった。佐藤政権にとっての衝撃は1972年のニクソン大統領の訪中であった。僕と美智子は、1971年7月から米国に滞在していたので、そこでニュースで知った。さらに、ウォーターゲート事件やパリ協定に基づくベトナムからの米軍の完全撤退など、米国は混乱期にあった。しかし、戦争が終わったという安堵感が充満していたのも事実である(これで研究室仲間が徴兵され戦地に出されることなどがなくなって)

 池田を引き継いだ佐藤政権は7年8か月続いた。池田・佐藤政権によって出来上がった、吉田あるいは旧自由党の流れを汲む自民党の路線を「保守本流」と呼んでいる。本書によれば、保守本流の政治とは、経済中心主義、軽武装日米安保を基軸とし、憲法問題を未決のままに置くことで、当面の政治的安定性を優先する立場と言える。池田派に由来する宏池会は、保守本流を自認しているが、55年体制を担った自民党政権の基本的姿勢が「保守本流」といえる。

 本書では、高度成長期の革新運動について、かなりの紙面を割いている。例えば、社会党民社党の分離、革新自治体の誕生(美濃部都政など)、新左翼の誕生など。しかし、日本の政治を左右するものにはならなかったので、ここでは触れない。

 池田・佐藤政権の後を継いだのが、田中派(佐藤派を乗っ取った)、大平派(池田を継ぐ)、福田派(岸に由来)、中曽根派(河野一郎派だが、思想的には違う)、三木派の5大派閥だった。1972年7月の総裁選では、「三角大福」の4候補が立ったが、金にものを言わせた田中角栄が制した。田中は市民党内よりも一般大衆の受けがよく、政策についての決断が速かった。2月にニクソン訪中に合わせる形で、北京に飛び、日中国交正常化の合意を行った。中国が戦時賠償請求を放棄し、日米安保にふれない、という周恩来の大人の対応で合意した。尖閣問題は棚上げとなったが、後日石原慎太郎の攪乱に載せられた民主党内閣が国有化し(2012年)、いまだに日中間の最大のわだかまりとなっている。田中角栄は威勢のいい言動で人気があったが、地味な仕事もした。例えば、1973年を「福祉元年」とするように、年金の物価スライド制導入がなされ、社会保障関連予算は前年比29%増であった。しかし、最大のスローガンであった「列島改造論」が、第4次中東戦争と第一次石油ショックによって腰砕けになった。さらに、文芸春秋の1974年12月号に載った、立花隆田中角栄の研究」によって、公共工事予定地の転売による錬金術が糾弾され、田中は失脚することになった。

 

ここで大体半分ぐらい来たので、ブログにアップします。引き続き、後半を書きます。