2024年4月19日投稿

柄谷行人「世界史の構造」の読書ノート

2010年8月、神戸で国際免疫学会が開催され、僕は所属していた会社MBLの関係で参加した。閉会前日の夜、お別れパーティーがあったが、僕は出席せずに街を歩き、元町で書店に入った。たまたま平積みされていた本書を取り、少し読んだ。序文に、F.フクヤマの「歴史の終わり」について、「ある意味で彼は正しかった」と書いてあったのに引っかかった。S.ハンチントンが「文明の衝突」で書いているように、世界の分裂が始まっているときに、「歴史の終わり」がどう正しいのか、考えているうちに買ってしまった。出先で500ページの重い本を買うなど、馬鹿げていたがそれなりの意味はあったように思う。本ブログでは、はじめて読むつもりで、内容を追ってみる。大学生(?)の読書ノート・レベルになると思う。さて、「力と交換様式」までたどり着くのはだいぶ先になるが、努力してみる。

 

序文

グローバリゼーションや新自由主義の勝利という、フクヤマの「歴史の終わり」がたちまち破綻し、それに代わって国家資本主義的ないし社会民主主義的な政策(オバマの「チェンジ」)がとられるようになった、と言われている。しかし、柄谷によれば、これは「歴史の終わり」を否定するものでなく、むしろそれを証明するものである。「資本=ネーション=国家」という三位一体の環が現代の社会を律する仕組みであることは、ソビエト連邦が崩壊する前後で少しも変わっていない。むしろ、その強力な環がソ連邦の崩壊を導いたとする。

 柄谷は書いている、「資本主義のグローバル化の下に、国民国家が消滅するだろうという見通しがしばしば語られてきたが、グローバリゼーションによって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護というものに向かう」と。柄谷は三位一体の環を称揚するのではなく、超えることを目指しているので、「資本への対抗が、同時に国家とネーションへの対抗でなければならない」と言う。1990年代に柄谷は、世界各国における資本と国家への対抗運動が、自然にトランスナショナルな連合となってゆくと楽観的に考えていた。そこに、2001年の9.11事件が起きた。この事件は「南北の深刻な亀裂」を露呈するもので、「諸国家の対立だけでなく、資本と国家への対抗運動そのものの亀裂を見せた。このとき、柄谷は、国家やネーションが単なる「上部構造」ではなく、能動的な主体として活動することを、あらためて痛感した。僕は、本書のこの部分を読んだとき、本書が経済学や社会学の本ではなく、より統合的な問題を学術的に扱おうとしていると感じた。資本と国家に対する対抗運動は一定のレベルを超えると必ず分断されてしまう。「そこで」と柄谷は書いているが、僕にはどうした「そこで」なのかわからないが、「私は交換様式という観点から、社会構成体の歴史を包括的にとらえなおすことを考えた」としている。

 柄谷が狙ったこと:ヘーゲルが観念論的にとらえた近代の社会構成体と「世界史」(一般的に言われているヘーゲル歴史主義批判)を、マルクスのように唯物論的に転倒することだが、上部構造(国家やネーション)は下部構造(資本制経済)によって規定されるものとみなすのでなく、資本・ネーション・国家の三位一体性を原則とする。そのために、生産様式でなく、「交換様式」から世界史を見る。しかし、三位一体性から歴史の必然性を示しただけでは、ヘーゲルと同じである(観念論)。そこで、マルクスヘーゲル批判に戻ってみる。以下、序説に入る。