2024年2月25日投稿

前回からの続き

金権政治に代わったのは、クリーンの・イメージの三木武夫であった。三角大福から角が抜けて、「大福」間の激しい対立から、副総裁・椎名悦三郎の裁定で、三木になったいきさつがある。三木は企業献金全廃を目指していたが、与党内での力関係から無理で、なんとか政治資金規正法改正(抜け道だらけの寄付制限、収支公開を柱とする)を成立させた。1976年2月、ロッキード事件が発覚し大混乱の中、7月、前総理田中角栄が逮捕された。この年、河野洋平らによる新自由クラブの発足があった。

話が前後するが、1975年は労働運動の転換点となった。国労全電通全逓など3公社5現業労働組合の連合体である公労協が、スト権を要求してストを行ったが国民の支持を得られず、大敗北となった。時代を読めなかった組合側の退潮は、以後の経営者側の緊張感を失わせ、後日の経済後退の基となったようだ。別の意味で、政府と企業経営者側に警鐘を鳴らした論文「日本の自殺」が、文芸春秋1975年2月号に載った。繁栄を誇った古代ローマ帝国がほろびたのは、いわゆる「パンとサーカス」(詩人ウェルナリスが権力者から無償で与えられるパン(=食料)とサーカス(=娯楽)によって市民が満足して政治的に無関心になっている)が原因で、当時の日本も活力なき福祉国家に堕する、という趣旨である。本書は、この書を当時の保守系知識人や財界エリートの危機意識が集約的に表れている、としている。しかし、僕の見たところ、国を支配する者たちは国民を甘やかすな、という程度のものでしかない。ちなみに、この年に、戦後初めて赤字国債が発行された。

 1970年代後半から80年代は、日本経済の安定成長期にあった(経済成長率は年度平均で4.2%)。しかし、自民党内の党内闘争も含め、政治的には不安定で短期政権が続いた。まず、1976年12月、福田赳夫が首相に就任した。福田は景気回復と財政健全化の両方を目標にして、77年度予算編成に臨んだが、衆院予算委員会では、野党の委員数が与党を上回っており、政府予算案の修正(減税と社会保障費の増額など)に応じざるをえなかった。福田政権は、福田ドクトリン(軍事大国化を否定し、東南アジア諸国と相互信頼関係を築く)や北京での日中平和友好条約調印(1978年)など、アジア外交で成果をあげた。また、ロンドン・サミット(1977年)およびボン・サミット(1978年)では、日本は世界経済をけん引する機関車としての役割を担うべきだとされ、福田は内需拡大策を国際公約とし、積極経済政策をとった。なお、この本の著者は、政治家福田を非常に高く評価しているが、僕は、サミットで各国首脳の集団の後を、少し離れて、手を後ろに組んだ福田がとぼとぼ付いて行く姿しか思い浮かばない。政権運営に自信を持っていた福田は、日中平和友好条約締結を期に衆議院を解散して基盤を固める予定だったが、大平と田中角栄の策動によって、総裁予備選で敗れ去った。12月、大平正芳政権が誕生。福田は野に下り、安倍晋太郎などと政策集団「清和会」を立ち上げた。「小さな政府」を目指した大平内閣は財政再建に取り組み、一般消費税導入を進めようとした。野党は激しく反発し、内閣不信任案を提出した。大平は衆議院解散で応じたが、自民党追加公認を入れてようやく過半数に達した(新税導入は断念した)。こうしてなんとか発足した第二次大平内閣は、ソ連アフガニスタン侵攻(1979年12月)、それに伴うモスクワ・オリンピック・ボイコットなど、世界情勢の急変に直面して苦慮する中、社会党が内閣不信任案を提出した。福田らの自民党非主流派の採決欠席もあって、不信任案が可決されてしまった。大平は衆議院解散を行い、改選時期を迎えた参院と同時選挙になったが、選挙中に大平が急逝してしまった。こうして、弔い合戦になった同時選挙では、自民が圧勝した。この本によれば、「党内抗争のはてに、大平は死して自民党の「中興の祖」となった」。

 派閥闘争で疲弊していた自民党は、大平派のベテラン鈴木善幸を首班にすえた。鈴木は、選挙での大勝に浮かれて改憲論に盛り上がった保守派と距離をおいた政治を心がけた。しかし、行財政改革が必須の状況に直面しており、82年度には、各省庁の概算要求を前年度並み「ゼロシーリング」を打ち出さざるをえなかった。第二次臨時行財政調査会(第二臨調)設置し、小さい政府を目指した。3公社(国鉄、電電、専売)、とりわけ巨額な赤字を出していた国鉄の改革が急務となった。鈴木首相は比較的平穏な政治状況から、続投すると周囲から見られていたが、82年10月、中国訪問から帰国後、次期総裁選不出馬を表明した。

 82年11月、総裁予備選を制した中曽根康弘が首相に選ばれた。かつて、「青年将校」と呼ばれた中曽根の首相就任は、自民党内右派にとって待望の出来事であった。それを反映するように、靖国神社公式参拝や防衛費増額の主張などを行った。しかし、実際の政治は従来の自民党政治を踏襲することになった。例えば、1987年度の防衛着はGNPの1.004%とされているし、レーガン米国大統領から要求されたイラン・イラク戦争への自衛隊派遣は見送った。中曽根は国民の現状維持志向を読んでいたと思われる。一方で、三大公社の改革は、第二臨調を使って強力に推進した。中でも、国鉄は敗戦による帰国者の配属などで異常に膨張しており、しかも、運輸機関の全体の輸送に占める国鉄の分担率は、1950年の51%から、1970年の18%に減少していた。こうした状況に対し、国鉄の民営化という大ナタが振り下ろされた(国鉄改革関連法案の成立:1986年11月)。JR7社への移行にともない、1983年に24万人いた国労組合人は、1987年には6万人に激減した。これは、社会党=総評にとって大打撃であり、以後の日本の政局に大きな影響をおよぼした。この間、1986年5月、東京サミットを成功裏に負えた中曽根は、7月、衆参両院ダブル選挙で大勝した。この選挙で、中曽根自民党は従来の保守層だけでなく、都市部無党派層の支持を取り付けた。本書によれば、「中曽根が述べたように、55年体制はたしかに終わろうとしていた。しかしそれは、自民党支配の再強化どころか、政界全体を揺るがす激動の時代の幕開けを意味した」。

 ここで、このブログでは、今まであまり触れなかった社会党について簡単に言及したい。戦後の社会党は、労働運動に肩入れしてきた左派と中道路線の右派に分かれ、その活動も全く違っていた。左派は、60年の三池闘争の敗北で痛手を被ったが、社会党内ではむしろ勢力を伸ばし、66年には綱領的文書「日本における社会主義への道」を出した。右派であった西尾末広は、59年に党を割り、民主社会党を結成した。しかし、中道路線を目指した民社党は、その路線は現在も続いているが、存在感を示したことがない。一方、「構造改革」を主導していた江田三郎が一時国民的人気を獲得したが、左派が強かった同党の主流にはならなかった。さらに、安保政策に関しては、非武装中立論が信奉され続け、1969年の党大会では、社会党政権実現の暁には、日米安保条約を解消し、自衛隊の解体に着手する、との方針が示された。この時代、社会党の内部で、国民生活に密着した議論がなく、その退潮は当然のこととされる。この後、江田の離党を含めて内部抗争が激しくなったが、1977年参院選で27議席しかとれない大敗北を喫し、軌道修正せざるを得なかった。先の「社会主義への道」を見直し、1986年1月党大会において「日本社会党における新宣言」を採択し、西欧型の社会民主主義政党を目指すこととなった。しかし、非武装中立論は維持され、「自衛隊違憲だが、国会の議決に基づき法的に存在している」を打ち出した。その後、この意見はむしろ保守派に利用され、憲法9条は違憲だから、憲法改正を求める一つの根拠になっている。既に述べたように、1986年の衆参ダブル選挙で社会党は大敗北し、土俵際に追い詰められ、同年9月土井たか子を委員長に選び、踏みとどまろうとした。

 中曽根政権に話を戻す。ダブル選挙で圧勝した中曽根政権は盤石にみえたので、それを利用しようとしたのが大蔵省である。財政赤字を回復するために大型間接税を導入しようとした。直接税(所得税)は、964と言われたように、業種によって所得の把握に不公平があったからである。中曽根自身も政治家として税制改革に取り組もうとした。具体的には、1987年2月に売上税導入を含む税制改正法案を国会に提出した。しかし、同日選の際、中曽根は間接税導入を否定する発言をしており、公約違反とみなされた。野党だけでなく、与党内からも新税導入に反対の声があがるようになった。結局、3月の参院補選、4月の統一地方選挙において自民党は敗北し、売上税法案は廃案となった。自民党はこの敗北を引きずらず、秋には内閣支持率は回復し、中曽根は10月、総裁任期満了を迎えることができた。

 

 今回はここまでにする。以後、バブルおよび;バブル崩壊、非自民党政権誕生を経て、失われた30年、と続く。