2024年3月18日投稿

前回からの続き

「改革の時代」は終わり、「政治の再イデオロギー化」が、2000年代中葉から20年の政治のテーマだ、とするのが本書の著者の見解である。もちろん、その中心人物は、安倍晋三である。日本政治は憲法問題や防衛政策といった保革対立争点が、再び政治の焦点となってきた。著者は、55年体制的な政策的対立構造への回帰の過程とも述べている。

 2005年9月の郵政選挙自民党を大勝に導いた小泉は、2006年10月の総裁任期満了で勇退した。この時の自民党の派閥の状況は、小泉を出した清和会(清和政策研究会)がもっとも存在感を示していた。旧竹下派経世会)は、小泉から古い自民党の象徴とみなされ、ポスト小泉の候補を立てることすらできなかった。かつて、主流派を形成していた宏池会も分裂が重なり(河野洋平らが離脱)、さらに「加藤の乱」の痛手を引きずっていた。旧中曽根派も分裂し、その一部が志帥会を名乗っていた。2006年9月の自民党総裁選では、安倍晋三(清和会)が、「戦後レジームからの脱却」を政権目標にかかげ、麻生(河野グループ)、谷垣(宏池会)を大差で下し、新総裁になった。安倍は、前年11月に採択された、「新しい憲法の制定」を掲げた自民党の新綱領の実現を目指した。

 野党民主党日本新党出身の同党右派の前原誠司が代表に選ばれ、新しい顔として期待されたが、偽メール事件で大失敗し、引責辞任に追い込まれた。そこで、03年の民由合併以来、雌伏していた小沢一郎が代表に選出された。鳩山を幹事長、菅を代表代行に就け、トロイカ体制を敷いて安倍政権に対峙した。小沢執行部は構造改革によって広がった社会的格差の是正を優先課題として押し出した。安倍政権側では、格差拡大や地方経済の疲弊といった小泉改革の副作用に伴い、かつての「抵抗勢力」の巻き返しが強まった。具体的には、郵政民営化反対議員の復党問題で、06年12月、野田聖子ら11名の復党が認められたが、世論には不評で、内閣支持率は低下した。さらに、閣僚の不正事務所経費や失言が続いた。決定打は、「消えた年金」問題、すなわち公的年金保険料の納付記録の漏れの問題が明らかになったことである。内閣支持率だけでなく、自民党の支持率も低下した。こうした中で、07年7月に参院選が行われ、自民党の獲得議席は37に留まり、民主党は60議席を得た。特に、農村地域の多い1人区で自民は6勝23敗となり、都市部との格差が支持を失った結果を示した。しかし一方で、比例得票数で見ると、小泉政権時代の04年参院選と07年参院選では、自民党の成績はそれほど変わっていない。本書の著者の見解では、民主党社民党国民新党との選挙協力が進んだ結果が、自民党議席数を減らした一番の理由としている。政界では、この理由が(故意に?)見過ごされ、自民党反小泉改革路線に舵を切るきっかけとなった。安倍は体調の悪化も重なり、退陣することとなった。

 福田康夫(赳夫の長男)が麻生を下して、自民党総裁となった。福田は安倍に比べるとハト派で、首相の靖国神社参拝に反対で、集団的自衛権行使の解禁に慎重であった。小泉政権時代に制定された、インド洋で米英軍などに対する自衛隊の支援活動を支えるテロ特措法が07年11月に期限切れを迎えるので、新テロ特措法を成立させることを目指した。しかし、「ねじれ国会」のため、断念せざるを得なかった。この状況で、急に持ち上がったのが「大連立」構想で、民主党の政権入りは、福田首相が望んだだけではなく、民主党党首の小沢も前向きだった。しかし、民主党には連立入りに反対する議員が多く、連立は幻となった。当時の連立政権は衆議院で3分の2以上の議席を有しており、参院で否決されても、新テロ特措法は成立した。ただ、福田内閣に対する支持率は2割を切る状況で、6月は参院で史上初めて首相に対する問責決議案が可決されてしまった。この状況を打開するには、新総裁の下で解散総選挙に臨む以外に自民党政権を維持する道はないと、福田は考え08年8月退陣を表明した。総裁選の結果、麻生太郎が圧勝し、麻生内閣が誕生した。しかし、大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻に端を発する金融不安が起こり、その余波が日本に及んだ。日経平均株価は、9月12日に12,214円だったのが、10月28日には6,000円台に落ち込んだ。その結果、派遣切りや雇止めなどが起こり、混乱となった。麻生内閣衆院解散を先送りして、この危機に対処し、大規模な財政出動を行った。小泉内閣が目指した財政再建目標の達成は絶望となった。この逆コースに反発したのが大阪府知事だった橋本徹で、地域政党大阪維新の会を旗揚げした。現在の維新はこの流れを継ぎ、「小さな政府」の目標をかかげている。

 民主党は、09年5月に行われた代表選で、党創業者鳩山が岡田を制して党首に返り咲いた。小沢は鳩山を擁し、選挙担当の代表代行という役割を担った。民主党は来る衆院選用のマニフェストに、子供手当、高速道路無料化、農家個別所得補償といった財政負担の重い公約を並べた。これに対し、自公からバラマキとの批判が出ただけでなく、岡田幹事長を筆頭に党内からも修正を求める動きがあった。09年7月の都議選で、民主党は大勝し、自民党内でも麻生退陣が唱えられるようになったが、時すでに遅く、7月下旬衆院が解散され、8月に総選挙となった。投票率は69.3%となり、盛り上がりを見せた。結果は衝撃的で、自民党議席は300から119へと前代未聞の激減となった。逆に、民主党は115議席から308へと躍進し、政権交代が実現のものとなった。この劇的な議席配分の変化は、小選挙区制に特有の現象であり、政治改革の成果とみることができる。鳩山内閣の布陣は、菅副総理兼経産相、岡田外相、小沢党幹事長など、各グループのバランスをとったものになった。報道各社の調査では、70%超の支持率を得ており、国民の強い期待がうかがえた。

 鳩山内閣では、官僚の政策への関与を抑えるために、閣議にかける前に法案を官僚トップ間で承認するための事務次官等会議を廃止し、各省内に政治家である政務三役(大臣、副大臣政務官)が政策内容の細部にまでかかわる方式に変えた。さらに、内閣官房に国家戦略室(菅が担当大臣)を設置し、トップダウンの政策立案の要にした。選挙で大勝したことは、マニフェストが国民に支持されたことだから、それを実現することが急務であった。まず、財源(16.8兆円分)であったが、増税は公約にはまったく触れていなかった。そこで、「事業仕分け」などによる財源発掘に取り組んだが、捻出できた財源は3.1兆円のみで、まったく不十分であった。結局、どの公約もはたすことはできなかった。また、鳩山は普天間飛行場沖縄県外に移設すると公言していたが、米国の賛同は得られるはずもなく、10年5月まで先送りしたものの、辺野古沖に新基地を建設することで米国と合意した。この件で、社会党が連立政権から離脱した。さらに首相と幹事長の「政治とカネ」の問題が追い打ちをかけ、内閣支持率は5月には、20%を切る調査結果も出た。鳩山は6月初頭、退陣を表明した。政権交代によって誕生した鳩山政権は、9か月で幕を閉じた。

 ただ、僕(矢原)が見たところ、かなり滅茶苦茶な鳩山内閣であっても、リーマンショックからの回復に水を差すことはなかったし、GDPはむしろ増えていた(前回添付した図)。これに対し、経済の数字から見ると、小泉内閣のときには目立った経済成長はなかった。

 2010年6月、鳩山を継いだ菅直人の内閣の発足とともに、内閣支持率はV字回復をみせた。ところが、首相自ら消費税引き上げを示唆する発言を行い、党内での混乱と世論の反発を招いた。7月の参院選民主党議席自民党を下回り、またもや「ねじれ国会」になった。2011年3月11日、東日本全域を超巨大地震が襲い、大津波による東北地方の惨状が明らかになり、福島第一原発で爆発事故・メルトダウンが起きるなど、わが国は第二次大戦以来の存立の危機を迎えた。国会は休戦状態となったが、震災に対する政府の初期対応のまずさなどが、国民の政権に対する信頼を失わせ、4月の統一地方選挙民主党は惨敗を喫した。6月初頭、自公両党の内閣不信任案に、党内の小沢グループが同調する動きもあり、再生可能エネルギー特措法の成立を機に、菅は8月下旬ようやく退陣表明した。次いで、民主党代表選の結果、野田佳彦が選ばれ、首相に指名された。野田は経済政策面では財政再建派で、消費税引き上げをやむなしと考えていた。党内で、消費税引き上げやTPP参加に反対の小沢・鳩山系の議員が多く、その一部が離党した。野田執行部は消費増税法案をまとめ、野党の自民・公明にすり寄った。もとより、不人気な増税民主党政権に決めさせることに、自民党の異論はなく、消費増税法案を修正(14年4月に8%、15年10月に10%)可決することになった。7月に小沢にグループが離党、新党「国民の生活が第一」を結成した。増税や内輪もめに対し、国民は拒否反応を示し、内閣支持率民主党支持率が激減した。この時期、香港活動家が尖閣諸島に上陸する事態が起こり、過剰反応した都知事石原慎太郎は、尖閣を都が購入する意を明らかにしたので、岡田は尖閣を国有化した。1972年に田中角栄首相と周恩来中国首相の合意によって、尖閣は現状維持(日本が潜在的な主権)となっていたのをひっくり返したので、中国は猛反発し、以後の日中関係悪化のタネを作ってしまった。自民党では、政権攻撃が甘いということで、谷垣は総裁再選をあきらめ、総裁選となった。第一回目の投票では、地方票を広く集めた石破茂が一位だったが、国会議員だけが参加する決戦投票で、安倍晋三が勝利した。一方、「近いうちに信を問う」と約束していた野田首相は、なすすべもなく、11月に衆院を解散した。

 自民党は「日本を取り戻す」をスローガンにして選挙戦に臨み、自民党は294議席を獲得し、選挙後に連立を組んだ公明党31議席を加えると、衆院3分の2以上を得ることになった。民主党は57議席(解散前230議席)で、壊滅的打撃を受けた。この結果は政権交代がまったくの失敗であったこと、55年体制型政治から転機を図る運動の挫折を意味した。

 この本の著者は、これから保革対決政治の再来と見ている。安倍は政権基盤を安定させるため人事を固め(ライバル石破茂幹事長を続投させた)、提出する法案数を絞り込み、国会審議での無理押しを避けた(2013年1月通常国会)。一方、政権は、「アベノミックス」と称する新経済政策をひたすらアピールした。内容は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「民間投資を喚起する成長戦略」である。第一の金融政策は、3月に日銀総裁となった黒田春彦と組んで、大胆な金融緩和を行い、日経株価は急上昇を続けた。内閣支持率は60%を超えた。2013年7月の参院選でも、与党が圧勝した。安倍首相は官僚に対する統制力を強化する目的で、内閣人事局を設置し、各省の幹部人事に官邸が関与する制度を作った(14年5月)。しかし、官僚による過剰な首相への配慮(忖度)が逆に問題視されるようになってきた。9月、政府・党人事で、ライバル石破を本人の意に反し、幹事長からはずし、閣僚として封じ込めた。代わって、総裁経験者の谷垣禎一を幹事長にした。これも反安倍勢力になりうる実力者を政権内に取り込む意図である。この後、閣僚のスキャンダル(例えば、小渕優子のドリル事件)が続出し政権への追及が厳しくなると、安倍は解散総選挙によって局面のリセットを図った。この選挙の名目は消費税10%への引き上げを延期することの承認を国民に求めたもので、政治的対立点にはなっていなかった(注:国会の解散権を首相だけが持つ、という制度の欠点表れた)。したがって、選挙の投票率は52.7%と歴代最低となった。しかし、安倍の狙い通り自民党は前回並みの議席を獲得した。3回の国政選挙で勝利した安倍は党内での権威が万全なものとなった。安倍首相は国際的な場でも存在感を示し、TPP参加(13年3月参加表明、15年10月大筋合意)は安倍外交の業績の代表的なものである。これは「一強」であったからこそ、農家の反対を押し切って、TPP政策をまとめた。

安倍のイデオロギー的右派の側面を見せたのが、まず特定秘密保護法案で、13年2月の国会で強行採決し、左翼だけでなく、文化人やジャーナリズムからも「決めすぎる政治」に批判が高まった。さらに、集団的自衛権は、従来の政府見解では「保有はするが憲法上行使できない」とされてきた。しかし、近隣国の軍事的脅威が高まる中で、米国との同盟関係を強化するため、集団的自衛権行使の解禁は不可欠であるというのが安倍政権の立場であった。2014年7月に、集団的自衛権の限定的行使を容認する旨の、閣議決定を行った。そして、同年12月の衆院選を制した。閣議決定の内容をふまえた安保関連法案は15年5月に国会に提出された。長らく維持されてきた憲法第九条の解釈の変更は、「戦後レジーム」への重大な挑戦にほかならない。はたして、ここから猛烈な反対キャンペーンが巻き起こった。国会内での野党による徹底抗戦だけでなく、国会前では学生団体など多くの群衆が集まり大規模なデモ活動が繰り広げられた。中でも、若者の団体SEALDSの抗議活動が目立った。一般の国民にもこの法案は不人気で、内閣支持率は低下した(7月に40%)。結局、9月に与党による強行採決によって可決・成立となった。

この間、日本政治の再イデオロギー化が進むと、各野党は右派的な政権に対する距離感を問われることになった。その結果、野党の立場は2ブロック(右と左に)に再編された。まず、維新が安倍政権に近い橋本徹らが離党して、「おおさか維新の会」(16年8月、「日本維新の会」と改称)を立ち上げた。民主党は維新の残党組を吸収して、党名を民進党に改め、最左翼政党の共産党との選挙協力関係を作って行った。

2016年夏の参院選に向けて、安保法案を成立させた安倍政権は、その直後、アベノミックスの第2ステージの「新3本の矢」政策であった。具体的には、「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」を目指すとされ、少子高齢化対策に重点を置いた内容であった。中身はともかく、スローガンとしては野党のお株を奪う意味をもった。そのため、2015年秋以降、内閣支持率は上昇局面に入った。安倍首相は宿願の憲法改正に向けて動き出した。衆参両院で3分の2以上の議席を確保しており、改憲発議の前提条件は整っていた。17年憲法記念日に、安倍首相は「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べ、9条について「1項、2項を残し、その上で自衛隊の記述を書き加える」という、「国防軍の設置」という自民党改憲草案から後退しているが、これは公明党への配慮と考えられた。政界での憲法議論は活発化したが、改憲発議への具体的プロセスは進まなかった。安倍にとっての誤算は、「森友・加計学園問題」が浮上し、便宜供与疑惑の対応に苦しむ事態だった。さらに、2017年秋、東京都知事だった小池百合子改革保守政党を立ち上げ、国政に復帰する意向を示した。小池は地域政党都民ファーストの会を7月の都議選で大勝に導くなど、日の出の勢いであった。小池は9月下旬「希望の党」を旗揚げした。突然の新党運動と解散風に、民進党内は動揺した。当時、代表だった前原は、野党再編を志向しており、民進党全体として希望の党に合流する方向を目指した。しかし、小池が安保・憲法観で一致しない左派系の議員を「排除」したいとの意向を示した。そこで、民進党左派系議員は10月初頭、枝野幸男を代表とする立憲民主党を立ち上げることになった。結果的には、安倍政権のイデオロギー攻勢が、野党の細分化をもたらした。

 2017年9月下旬、臨時国会冒頭に衆院が解散した。10月選挙の結果は、またもや自民党が圧勝した。その理由は、「改革の時代」に左右幅広い議員を糾合し自民党の有力な対抗勢力たるべき野党が分散した結果である。このことは、与党得票率49%、野党得票率43%にも表れている。2019年5月1日、天皇の退位による、元号が令和に改められた。政局も平穏で、7月の参院選も変り映えしない結果だった。しかし、消費税再引き上げ(10月)や安倍首相の花見の会スキャンダルによって、改憲の動きは鈍くなっていた。新型コロナのパンデミックによって、夏に予定されていた東京オリンピックが延期となった。20年8月末、安倍首相は持病が再び悪化したことを理由に退陣の意向を示した。

 この本に関するブログは、今回で終わる予定だったが、この後、菅と岸田の政権に続くが、もう一回書いて終わりにする。