240103投稿

雑録3.夜寝床で読む本

昔は、外国の探偵小説の翻訳版を読んだりしていたが、いまは酒を飲んで寝床に入るので、数ページも読めば寝てしまえる本がいい。中でも、よく読んだのが、小林勇の「山中独膳」である。小林勇岩波書店創業者岩波茂雄の娘婿であり、同社会長を務めた。本を作る裏方の一方、文も書き、日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。幸田露伴三木清寺田寅彦などの知識人と親しくしていた。

食べ物好きで、それを文章にしたのが、本書である。一読すれば分かるように、小林は偏屈でこうるさい、いやな親父である。名のある天ぷら屋の主人がエビを揚げ、「まず塩であがってください」と言ったのに対し、天つゆとおろしで食べるのが好きだった小林は腹を立てて、「さしずはよせ」などと怒鳴ったりした。また、食事の時に出てくる漬物に、仲居が醤油をかけたりするのと、怒りまくる。しかし、こういうことを自分で書いているのだから面白い。

この本の後半がこの本のタイトル「山中独膳」で、小林がひと夏、北軽井沢の岩波の山荘で独居した日録である。1970年7月22日(小林69歳)早朝、運転手付き自家用車で鎌倉の家を出て、軽井沢に向かう。熊谷の峠茶屋(この本では、「峠の茶屋」となっているが、「峠茶屋」が正しい)に寄って、小林は肉豆腐と豚汁、卵、ビール小瓶で朝食とした。僕も昔、長距離運転手向けのこの店で、豚汁定食を食べたことがあるが、暖かくておいしかった。朝のうちに北軽井沢に着き、別荘での一人暮らしを始めた。掃除、洗濯、風呂焚き、3度の食事つくり、など家事は全部自分でやる。小林の料理の腕は、口ほどではないにしても、なかなかのもので、生きた鯉を料理したりする。

北軽井沢では、まず村の主的存在だった野上弥生子に挨拶し、別荘滞在中の谷川徹三夫妻や俊太郎と近所付き合いをする。もともとは大学村としてできた別荘地なので、大変文化的な環境だが、このエッセイには主に食べ物のことが書いてある。

朝食、トマトジュース、牛乳、パン一切れ、トマト1個など。昼食は、そばをゆでる。わかした風呂に入ってから、夕食は、瓶ビールで始まるが、その後で飲む酒のことは書いてない。鶏の腿肉塩焼き、焼いた鱒、えんどう卵とじ、ふだん草、その他、スモークサーモンなどいろいろ。豚三枚肉の角煮を作ったり、200gのビーフステーキを焼いたりもしている。これだけ食べても、晩酌の酒のことは書いてない。また、漬物にはふれているが、飯のことは書いていない。生きたどじょうを手に入れ、丸煮を作った晩もある。

北軽に来てしばらくして、東京で孫が生まれたという電報を受け取った。よろこんで電話をかけるので店のあるところに出かけ、ついでに生きた鯉をもらった。早速料理した。まず眉間を出刃の峰で一撃しおとなしくさせてから、あごから6枚目の鱗のところに包丁を入れて切った。濃緑色の胆を注意深くはずし、料理している。鱗も肝も骨以外は全部食べてしまう。なかなかのものだ。

僕がこの本から教わった食べ物のレシピが一つある。北軽井沢にはユウスゲがあちこちに生えている。立原道造が詩に詠んだ「わすれぐさ」のことだ。小林は、ユウスゲの花を10個ほど摘んで、さっと熱湯にくぐらせ、冷水にはなす。それを酒と酢半々で食する。僕は2000年から12年間ほど、長野県伊那市の手良というところに住んだが、夏には、その家の庭先に沢山のユウスゲが花をつけた。それを摘み取って、小林にならって食した。これは酒がなければ意味のない食い物だった。小林は谷川徹三に教わったと書いているが、静かに酒を飲むには、これ以上のものはないと思った。

小林は、いろいろなものを料理し食べ、散歩したり、野上や谷川を訪ねたり、手習いや絵筆をとったりして、ひと夏を過ごし、9月8日に、親しくしていた国立がんセンター総長の久留勝の死を契機に、山荘を閉じて、鎌倉に戻った。僕は、小林がなんとも素晴らしいひと夏を過ごしたと思った。

 

 

ユウスゲの花の酢の物