2024年6月15日

第二部 世界=帝国

序論 国家の起源

第一部では、交換様式A(互酬)が支配的な氏族社会の形成をみてきた。第二部では、交換様式B(略取と再分配)が支配的な社会構成体、すなわち国家社会の形成を論じる。柄谷は、まずゴードン・チャイルドが唱えた、農業革命が人々の定住をうながし、生産力の拡大から、都市が発達し、国家が生まれたとする見方を、否定する。農業が国家生むきっかけとなったのではなく、柄谷は、ぎゃくに、国家から農業が始まったとする。

古代文明がもたらした革新は、テクノロジーとしてはさほどではないが、人間を支配する技術という意味で画期的であった。狩猟採集社会の人々は短時間しか労働しなかった。そのような人たちを、土木工事や農業労働に従事させるには、単なる強制では足りず、自発的な勤勉さが必要であった。ここでは、宗教的なかたちがとられた。すなわち、王=祭司が必要だった。王=祭司は、農民を働かせた代わりに、軍事的に保護し、かつ再分配によって報いた。

農耕と定住が進む一方で、これを拒否したのが遊牧民であった。遊牧民は狩猟採集民に似ているが、もともとは国家で発明された牧畜を受け入れている点が違う。牧畜には牧草、泉、井戸などに関して、部族間の契約が必要であった。しかし、この盟約共同体は国家とはらなかった。遊牧民が国家を形成するのは、既に存在している中心部の国家を略奪・征服した場合だけである。そのため、広域国家(帝国)の形成には、遊牧民は不可欠の要素である。

第一章 国家

1.原都市=国家

繰り返しになるが、柄谷はこの項を「国家は農業革命の結果ではなく、その逆に、農業革命こそ国家の結果なのだ」と書き出している。アダム・スミスは、原始時代に関しては、共同体から農業が始まり、それが都市・国家に発展したと考えた。しかし、建築ジャーナリストのジェーン・ジェイコブスはこの考えを転倒させて考えた。彼女は、農業の起源は農村ではなく、事物や情報が集積し、技術者の集まる都市(彼女は原都市Proto-cityとよんだ)にある、とした。そこでは、農耕技術、品種改良、動物の家畜化などが行われた。柄谷は、原都市=国家とする。古代国家は、メソポタミア、エジプト、インダス、中国など、どれも大河の河口で始まった。そこが農業に適した場所だったからではなく、国家はそこで灌漑農業を発達させた。ウェーバーは、都市は多くの氏族や部族が新たに形成した盟約共同体として始まったという。「盟約」は、新たな神への信仰によってなされた。都市は交易の場であり、外敵や海賊などから守るべき城砦都市、すなわち武装した国家であった。つまり、交換様式Bと交換様式Cが連結している。

 柄谷は、交換様式Cを交換様式Bの後に論じているが、それはCがBの後に生まれたのではない、という。交換様式Cは社会構成体の初期、つまりAが支配的であった段階から存在した。定住共同体は他の共同体と交易(商品交換)を必要とするからだ。しかし、首長が王権となるには飛躍がある。というのは、国家は、互酬とはまったく別の交換原理に基づいているからだ。

2.交換と社会契約

ホッブスは、国家の起源を、戦争状態にあった諸個人が自然権を一人の人間(王権者)に譲渡する「社会契約」に見た。さらに、ホッブスは、諸個人だけでなく、王、封建領主、協会、都市らが抗争する状態まで、国家の起源とみていた。このような過程は西ヨーロッパの封建社会に特有なものではなく、メソポタミア専制国家が出現する過程でもあった。シュメールのギルガメシュ叙事詩には、一人の王に権力が集中する過程が描かれている。柄谷が強調するのは、ホッブスがいう契約とは、「恐怖に強要された契約」である点である。

 「恐怖に強要された契約」は交換である。服従する者には、「服従を条件にその生命を与える」からである。支配者は、服従する者の安全を保証しなければならない。ウェーバーは国家の本質を「暴力の独占」に見出した。しかし、柄谷は補足して、国家がふるう「実力」はもはや暴力ではないということを意味している、という。言い換えれば、国家の権力がつねに「法」を通して行使される。征服者(支配者)は、被征服者からすべてを収奪するのではない。国家が成立するのは、被征服者が略奪されるぶんを税(献納)として納めるときである。それによって、被征服者は自らの所有権を確保できる。ここに交換の形態が成立する。

3.国家の起源

前国家的社会において、氏族間の抗争がある場合、それを止める上位集団はない。氏族間には互酬原理が働いているので、高次共同体をつくることがあっても、国家にはならない。国家が成立するのは、共同体間の「互酬」が禁じられたときである(なにによって禁止されたのか、ここは記述があいまい)。バビロニアの『ハムラビ法典』の中に、「目には目を」という有名な条項があるが、これは「やられたらやりかえせ」という意味ではない。逆に、とめどなく続く血讐(ヴェンデッタ)を禁止することである。共同体間の争い確執を、かれら自身でなく、その上位にある国家の裁定によって解決することを意味する(すでに国家はできている?)。

 氏族社会がいかに集約されても、国家にはならない。それは柄谷が何度も繰り返し述べているように、互酬原理に支配されているからである。エンゲルスは、氏族共同体を終わらせるものを、内部だけでなく外部(つまり、征服者)に求めた。しかし、征服は、ほとんどの場合、一時的な略奪に終わる。

 国家は共同体の内部で生じる(共同体が変身するから)というテーゼと、国家は共同体の内部では生じない(互酬原理のせいで)というアンチテーゼが成り立つ。このアンチノミーは、国家の起源として、支配共同体と被支配共同体の間に一種の「交換」を見出すことで、解消される。征服した側が被征服者の服従に対して保護を与え、貢能に対して再分配するという「交換」である。氏族社会における征服という事態は、当事者たちによって「否認」される。また、国家は伝搬する。すなわち、一つの国家が存在すると、その周辺の共同体はその国家に服属するか、自ら国家となるほかないからである。

4.共同体=国家

ここでは、柄谷は次のように述べる。「すでに述べたように、国家は共同体の内部からではなく、その外部から来る。だた、それは共同体の内部から来たかのように、みえなければならない。近代国家がネーション=ステートであるように、古代からの国家はいわば、共同体=国家としてあらわれた」。

 共同体=国家の形成において最も重要な役割をはたしたのは、宗教である。多数の都市国家の抗争から古代国家が生まれたように、宗教もさまざまな氏族・部族の神々を越えた神が出現した。例えば、エジプトのファラオ(神)である。これによって、王は大衆の自発的な服従を得た。

5.アジア的国家と農業共同体

支配共同体と被支配共同体の関係の集権化が進む(その過程で、さまざまな首長、貴族、祭司といったモンテスキューの言う中間勢力は制圧された)と、旧来の氏族的共同体は農業共同体として再編された。マルクスは、アジア的生産様式(あるいはアジア的な農業共同体)を、氏族社会から転化した最初の社会形態としてみた。シュメールでは、国家が多くの人間を動員し、大規模な灌漑工事を行い、かれらに土地を与えて働かせ、国家が農業共同体を作り上げた。専制国家は貢納賦役を課すほかは、農業協同体の内部には干渉しなかった。国家は単に軍事的な制圧だけでなく、法による支配(法治)が不可欠だった。古代国家には思想家(ギリシアのポリスのソフィスト、中国の諸子百家のような)が付随していた。

 アジア的国家においては、専制君主は、武力によってではなく、仁徳によって統治する者(君主)とみなされる。すべての臣民を、官僚を通じて支配し、管理し、配慮し、面倒をみる、それが専制君主なのである。しかし、このような王権は長続きしない。内部および外部(遊牧民の侵入など)の圧力により、崩壊するが、別の王朝が再建される(マルクスによる、「休みなき王朝の交替」)。そして、新しい王朝の構造は変化しない。ギリシアやローマでは専制国家の体制ができなかったが、ローマは最終的にアジア帝国のシステムを取り入れて、帝国となった。

6.官僚制

古代文明は大河川流域に発生し、大規模な灌漑農業をもっていた。エジプトでは、全国的・共同経済的な治水を行うために、書記や官僚の機構を必要とした。人間を統治する技術が、自然を統治する技術を生んだのである。官僚制は、王と臣下の間から互酬的な独立性が全面的に失われたときに生まれた。ウェーバーによれば、その後に、官僚制は保証された貨幣俸給制に基づくようになる。専制的な君主は、官僚なしには何もできない。もう一つ、官僚制の基盤は文字にある。エジプトにおいて、複数の複雑な文字体系を習得することが官僚の必要条件であった。また、中国において、官僚制が連綿として続いたのは、漢字・漢文学の習得を必須としたからである。8世紀、隋王朝から始まった官僚の選抜試験「科挙」は、官僚制をどんな支配者(王朝)にも仕えるような独立した機関に仕上げた。

 第一章はここで終わり、第二章 世界貨幣 に移る。