231204投稿

雑録1.映画大林宣彦監督「廃市」について

この映画は、映画館では観たことがない。もっぱら、夜中に酒を飲みながら、BD版を観ている。題名は暗い内容を予感させる。原作は福永武彦で、題名に添えた北原白秋の「…さながら水に浮いた灰色の棺である」という文も、同じく暗い。しかし、小説のほうはともかく、大林宣彦の映画は、僕にとってまるで違い、退廃の世界に対峙する輝かしい青春の活力を感じさせる。僕が「廃市」を好きなのは、語り手である東京の大学の英文科の学生が、卒業論文を書くために、田舎の親戚の知り合いの旧家で夏の休暇を過ごす、というシチュエーションが若いころ僕の理想だったことが一番の理由である。静まり返った旧家の2階で深夜、川に面した戸を開けて、タバコ(ハイライト)に火をつけ思索にふける、などというのは、贅沢の極致だと思う。

 物語は、一人の男と彼を愛した姉妹の三角関係が筋だといえば元も子もないが、姉妹は共に男の意をとらえられず苦しむ。その苦しみは、学生が泊まった最初の夜中に聞こえた女の忍び泣きの声で表されているが、それ以外は男が死ぬまで画面には描かれない。学生の世話をしているのは、安子(妹のほう)で、小林聡美が演じている、快活な健康そのものの娘である。郁代(姉)は根岸季衣が演じていて、物語ではお雛様のような美女となっている。男、直之(峰岸徹)は郁代と結婚(婿養子)しているが別居しており、家業になじめず退廃的な生活を送っている。まだ30歳だが粋人で、水神祭りの舟舞台で歌舞伎の「弁慶上使」の針妙のおさわを玄人はだしの芸で演じたりする。姉妹の母親の法事の席で、直之は学生に町の衰退を語るが、町ではなく自分の心うちを伝えたのである。酒席での直之のふるまいは、自然なままで男の色気がただよう。

 その直之が一緒に暮らしていた水商売の女(秀、舞台でおさわの娘を演じていた)(入江若葉)と睡眠薬自殺をとげた。一番衝撃を受けたのは安子である。通夜の席に現れた郁代は、悲しみよりも怒りに近い表情を見せた、と学生は感じた。だれのせいで直之が死を選んだか、という姉妹の言い争いは、映画全体の流れからすると違和感があるが、他には描きようがない。姉は男が妹を好いていると思い、妹は男が姉を愛していると思っていた。結局、姉が正しかったのだが、男は自分の思いを封じてきた。それで、死を選んだというのは、あまりにも単純すぎるので、原作者の福永武彦は「廃市」を、くどくどと書いたのだろう。大林監督もその意を十分に受けとめて映画にした。

 しかし、物語の舞台となった水の町(実際には柳川である)は、廃市であろうか。物語は、語り手の学生がその夏から10年を経て、その町が大火であらかた焼けてしまったことを新聞記事で読んだことに始まる回想の形をとっている。原作者はなにがなんでも「廃市」にしたかったようだ。記録では、柳川沖端に大火があったのは、明治34年(1901年)で、酒造業をしていた北原白秋の生家が焼けたときだから、この物語とは時代が合わない(原作には戦後であることがわかる記述があり、映画ではタバコのハイライトが出てくる)。この映画では、学生と安子が付き添って、男の棺を乗せた小舟が尾美としのり演じる下男の竿で水路をすべるように行くシーンが美しく印象的である。それは今でも変わりなく続いているはずである。