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昆虫少年だったころ

生物医学系の研究者には、昔の昆虫少年が多い(昆虫少女はあまり聞かないが)。僕もその一人だった。いわゆる蝶屋だったが、標本コレクターではなかった。家がそう豊かではなかったので、北海道や九州といった蝶採集のフィールドに出かけることはできなかった。当時(1950年代)、渋谷に志賀昆虫館という昆虫採集の道具を扱う専門店があり、立派なドイツ式標本箱など置いてあったが、それらの値段は僕の小遣いの範囲をはるかに超えていた。それでも、貧弱な採集品の標本作りと幼虫の飼育に精をだしていた。それに加えて、蝶の生態観察をするのが好きだった。当時、蝶の幼虫の観察では、中学生の平賀壮太さん(京大ウィルス研、熊本大)が、父親に買ってもらったライカで、ゴマシジミの幼虫がアリの巣で育つ様子を写真にとり、「新昆虫」という雑誌に発表したりしていた。

ある春の日、いつものように、僕が畑と雑木林の間の日当たりのよいゆるやかな坂道を下っていると、ミヤマセセリが下のほうから飛翔してきた。少し下ると、またミヤマセセリが飛んできた。それから気を付けて、繰り返し観察すると、オスのミヤマセセリが同じような道筋で飛翔することが確実となった。その記録を、当時僕が所属していた京浜昆虫同好会の機関誌(ガリ版刷りだった)に発表した(図1)。手元にあるのは、自分の報告のコピーだけなので、発行年月日はわからない(僕の高1頃?)。このレポートは新昆虫などにも紹介され、少しは同好者の興味をひいたようだ。

 この京浜昆虫同好会が編集出版した「新しい昆虫採集」という本は手元に残っている。専門家に交じって素人の僕も執筆者の一人に加わっている(図2,3)。僕の一人置いて右隣に養老孟司さんの名前がある。この本が出たころは、僕は養老さんと面識がなかったが、面白い名前なので憶えていた。蝶学の大家磐瀬太郎さんに会った時、僕と同年代で養老孟司という少年が鎌倉にいて、甲虫採集で活躍していると聞いたことがあった。

 僕は生まれた時(1937年)から現在まで、ニューヨークに滞在した5年間を除いて、横浜の妙蓮寺という町に住んでいる。僕が昆虫採集をしていたころは、わが家の近くにはクヌギやコナラの雑木林があちこちにあり、オオムラサキなども普通に見かけた。よく採集に同行したのは当時小学生の原田基弘さんだった。原田さんは、後に伝説的に高名な蝶ハンターとなり、NHKテレビでも取り上げられた、ブータンシボリアゲハ調査隊(2011年)の隊長を務めた。しかし、名ばかりの70歳の隊長ではなく、一人で藪を分け、木によじ登り、幼虫や蛹をまっさきに見つけたらしい。僕と一緒に採集していたときも、歩いていて、20mくらい先の土手に生えているウマノスズクサの葉裏にジャコウアゲハの若齢幼虫がいるのがわかったらしい。また、家の近所に6月になると朝方と夕方にオオミドリシジミが乱舞する雑木林があり、そこで出会ったのが五十嵐 邁さんだった。五十嵐さんは大成建設の副社長になった人で、本職は建築家だったが、蝶類学会の初代会長でもあった。彼は僕より10歳以上年長だったが、気さくに付き合ってくれて、家にも寄らせてもらった。標本よりも、僕が驚いたのは、彼の描いたアゲハ蝶の精密画だった(後に大図鑑に集約された)。五十嵐さんについて書いているときりがないので、経歴などに興味のある方は、Wikipediaを見てください。

 こう書いてきてみると、貧しかった昆虫少年が、思いもかけないほど豊かな世界にいたことに気づかされた。

 

図1:レポート

図2:本の表紙

図3:本の執筆者