2026年3月21日 投稿

序論

6.交換の起源

マルクスは、商品の価値はその生産に要した労働(時間)にあるという労働価値説を、アダム・スミスやリカードらの国民経済学(古典派経済学)から受け継いだ。剰余労働の搾取という考えも、ウィリアム・トムプソンらのリカード派社会主義者の見解である。これらの考えが「資本論」の基盤にあることは確かであるが、柄谷は、「資本論」の本領は、その副題である「経済学批判」にあるとしている。

 古典派経済学は生産を重視し、交換を副次的なものとした。この根底には、アダム・スミスの論敵であった重商主義者が交換(交易)を重要視したことがある。重商主義者は貨幣に特別な力があると見なし、交易を通してそれを蓄積することを至上化し、保護貿易主義の政策をとった。これに対して、自由主義を唱えたスミスは、貨幣に特別の地位を与えなかった。商品の価値はそこに内在する「労働」であり、貨幣はそれを表示する手段でしかない、とされた(「国富論」)。

 マルクスはこの労働価値説を継承したように見えるが、ある意味では重商主義に立ち返って考えたのである。いいかえれば、問題を生産ではなく、交換から考えたのである。マルクスがそうしたのは、貨幣の”力“について考えようとしたのである。貨幣は商品の労働価値を表示する単なる記号とするのではなく、なぜそれが特異な”力“をと持つのかを解明しようとした。この”力“は、物の生産ではなく、その交換において生じる。

 商品はたんなる生産物ではなく、生産物が交換されるときに生じる形態である。物の使用価値は、交換なしで、物と人との直接関係の中で実現されるが、商品の価値は、交換の中で、つまり社会的過程の中でしか実現されない(「資本論」)。商品の価値とは、物に付着した何かである。この「何か」を、マルクスはフェティシュ(物神)と呼んだ。マルクスは、商品交換において、「人間の頭脳の産物」であるにも関わらず、固有の生命をもち、人間を強いる「力」が存在する事実を見た。

 商品の交換は、共同体の内部ではなく、その外にある共同体との間に行われる。他者との接触には、単なる同意や約束以上の、強制的な「力」を必要とする。それが、フェティシズムである。マルクスは、貨幣はそのような物神性が発展した形態である、と考えた。柄谷によれば、それが資本物神となるにいたる過程を論じたのが「資本論」だとする。

 貨幣があれば容易に物を買うことができるが、物を売って貨幣を得るのは容易ではない。資本の蓄積は、M-C-M‘という運動を通してなされるが、マルクスはC-Mという過程に「命がけの飛躍」を見出した。C-M、つまり物を売るということは、それに失敗すれば物の所有者は打ちのめされる。つまり、商品と貨幣の交換には深淵が存在するのである。