2026年3月11日 投稿
序論
5.交換の「力」とフェティシュ(物神)
ヘーゲルは『哲学史講義』において、世界史は「精神」が自己実現する過程である、とした。人間の社会史は、なんらかの意図・設計によって作られたものではなく、人間の意図を超えたものであり、むしろ「無意識」によって強いられたものである。例えば、カエサルやナポレオンは、それぞれの意識においてはそれぞれの野望や欲望、野心によって動いている。ところが、彼らはそれぞれ、そのような「心理」あるいは「意識」を超えたものを実現してしまう。そのことを、ヘーゲルは、彼らは「無意識」に支配されているのだと解した。次に、ヘーゲルは、ダイモニオン(精霊)に「議会に行くな」いわれたために、広場に行って問答を始めたソクラテスについて、同じような議論をしている。この「ダイモン」はとは「ソクラテスの無意識」ではないか、というのである。ヘーゲルの弟子を自認するマルクスも「資本論」で、同じようなことを考えた。
「人間が彼らの労働生産物をたがいに価値として関連させるのは、これらの物が、彼らにとって同種の人間労働のたんなる物的な外皮とみなされるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の生産物を交換において価値として等値させることによって、彼らのさまざまな労働をたがいに人間労働として等値させるのだ。彼らはこのことを意識しないが、しかしそうやっているのだ。だから価値の額に、価値とはなんであるかは書かれていない」(「資本論」、第1巻第1篇第1章)。このように、マルクスは「資本論」で「無意識」を持ち込んだ。というより、ダイモン(精霊)を持ち込んだ。それが「フェティシュ」(物神)である。つまり、商品価値に関してフェティシュに言及したとき、彼はそこに一種の霊的あるいは観念的な力が出現すること、そして、それが生産ではなく交換から来ることを洞察したのである。このところが、柄谷の一連の考察の原点となっているのである。