2026年3月3日 投稿
序論
4.資本制経済の中の「精神」の活動
マルクスは「資本論」第1巻の第2版のあとがきで、自分があの偉大な思想家(ヘーゲル)の弟子であることをおおっぴらに認めたばかりか、価値観に関する章のあちこちでヘーゲル特有の表現法におもねった、と述べている。そして、弁証法が彼の手で神秘化されたとしても、そのことによって、弁証法の一般的な運動形態を最初に包括的または意識的に述べたのが彼であったということは、ゆるがない。弁証法は、ヘーゲルの場合、頭でたっている。神秘的なヴェールの中に合理的な核心を見るためには、それをひっくり返さなければならない、とマルクスは書いた。
柄谷は、この有名な文は誤解を与える、と指摘する。たしかに、マルクスはヘーゲルの観念論的哲学を「ひっくりかえす」ことを若い時からやってきた。しかし、「資本論」における転倒はそれらとは違う。そこでは、マルクスは、ヘーゲルの「論理学」の叙述に忠実に従った。それは、「価値観に関する章のあちこち」だけではなく、「資本論」の全体系においてそうなのだ。マルクスをそうさせたのは、資本制経済の中に一種の「精神」の活動を見出したからなのだ。
マルクスが「資本論」で書こうとしたのは、商品精神(物に憑いた霊)が貨幣、資本へと発展し、社会全体を組織してしまう歴史である。マルクスの書には、『貨幣精神の謎は、商品精神の、目に見えるようになった、幻惑的な謎にすぎない』(第1巻第1編第2章)とある。マルクスは精神(霊)が自然的・直接的な形態から発展して自己実現するというヘーゲルの論理に忠実にしたがいつつ編成したわけである。「資本論」で描かれるのは、物に憑いた得体の知れない霊が、産業資本として全社会を牛耳るにいたる過程である。僕の解釈では、(生産された)物に憑いた霊は、物が使われればそれで収まるが、商品になると次々に乗り移り、使うものの霊とは違ってくる。この変化を経済的・物質的な次元から説明することはできない。柄谷は、ここにおいて、マルクスは経済を「生産」ではなく、「交換」に見たと言う。