2025年12月6日
第4部 第二章 世界共和国へ
2.国家への対抗運動
資本主義経済は根本的に海外(国外)との交易によって成立している。ゆえに、社会主義革命は一国だけのものではない。資本と国家を揚棄することを目指す社会主義革命は、諸外国の干渉と制裁を覚悟しなければならない。この革命を防衛しようとすれば、自ら強力な国家として存在するほかない。このアンチノミーに対して、マルクスは「世界革命」を示した。バクーニンもまた、一国だけの革命は成功しえない、と考えていた。1863年、マルクスやバクーニンは国際労働者協会(第一インターナショナル)を結成した。しかし、そこには、地域の活動家やイタリアのようにネーション=ステートとしての統一を課題とする活動家などが入り混じっていた。結局、第一インターナショナルは、マルクス派とバクーニン派の対立によって1876年に解散する結果に終わった。
1889年に「第二インターナショナル」が、ドイツのマルクス主義者を中心に組織された。しかし、ここでも各国の労働者たちがナショナリズム的な対立の要素を持っていた。その結果、1914年の第一次世界大戦の勃発とともに、各国の社会主義政党がそれぞれ自国の参戦を支持する方向に転じてしまった(このブログで扱った例は、トーマス・マン「魔の山」の最後のところ)。例えば、イタリア社会党のリーダー、ムッソリーニはこの時点で、ファシズムに向かった。
第一次大戦の最中、1917年2月、ロシアにおいて革命が起こった。さらに10月、レーニンとトロツキーによって、ボリシェヴィキの軍事クーデターによる議会閉鎖、いわゆる10月革命が起こった。しかし、期待していたドイツの革命は起こらなかった。これは当然であった。ドイツ国家は、レーニンの亡命先スイスからの帰国を助け、ロシア帝国の弱体化を援助した。それ故、10月革命はドイツの帝国主義を助け、ドイツの社会主義革命を結果として妨げた。このような状況で、「世界同時革命」を期待するほうがおかしい。しかし、レーニンとトロツキーは「世界革命」を志向して、1919年に第三インターナショナル(コミンテルン)を結成した。第三インターナショナルにおいては、ソ連の共産党だけが国家権力を握っていて、各国の運動はソ連共産党に従った。そのため、各国において、社会主義は一定の地位を築いたが、その分、ソ連邦に従属することになり、世界=帝国型のシステムの一翼に成り下がった。
世界同時革命の理念は、トロツキーの組織した第四インターナショナルに引き継がれたが、反スターリニズムの運動として弾圧され崩壊した。一方で、毛沢東は、第一世界(資本主義)と第二世界(ソ連圏)に対抗する「第三世界」による革命を提起し、国内の統一において一定の成果をあげたが、世界的な広がりはなかった。「第三世界」とは、西側諸国にもソ連圏にも属さず、独立したアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国を含むが、統一された政治経済的組織ではない。
しかしながら、「世界同時革命」のヴィジョンは消えてしまったかというと、そうではない。1968年には、パリの五月革命、プラハの春、アメリカの反戦運動(反ベトナム戦争)、日本の全共闘運動など同時期に起こった。これらの政治闘争は結果的には敗北したが、ウォーラーステインの言う「反システム闘争」という観点から見れば、世界に大きなインパクトを与えた。これらの闘争の主体は、前章で述べたネグリ&ハートの「マルチチュード」である。マルチチュードとは、労働者階級だけでなく、マイノリティ、移民、原住民、学生、その他多様な人間集団(註:消費者が主力として入る)を一括して指す。マルチチュードは、1848年の反乱(フランス革命)における「プロレタリアート」と同義である。この意味で、「世界同時革命」の観念は今も残っている。
ここで私見を述べると、現在のマルチチュードでもっとも力を持ちうるのは、消費者である。これは、バルファキスのいう、「クラウド領主」に対する「クラウド農奴」と同じである。バルファキスによれば、この「農奴」は抑圧され飼いならされているが、実はすごい潜在力を秘めているのである。「テクノ封建制」にも書かれているが、不買運動は現在の資本主義社会にものすごい混乱を引き起こすであろう。この混乱の先に、革命後の世界が開けているかどうかは、まったくわからない。我が国においては、参政党の躍進にほんの少しその気配を感じる。現在の神谷参政党には政治的には単純右翼で、いいところが一つもないが、大衆に大うけする潜在力をうまく引き出すリーダーが現れれば、社会を変革するきっかけとなりうるだろう。
さて、最後に、「カントの永遠平和」を論じて、この大著が終わる。