2025年11月18日 投稿
第4部 第二章 世界共和国へ
1.資本への対抗運動
これまで資本主義に対してなされてきた闘争には重大な欠陥があり、資本主義を揚棄する方向は見えてこない。第一は、資本主義を国家(社会主義国家)によって抑えようとするものである。これはある段階までは可能であったが、以後国家の存続のために、逆に資本主義を呼び戻すことになった(ソ連邦、中国)。第二の欠陥は、社会主義運動が、生産点における労働者の闘争を根底においてきたことである。産業資本主義が発展し、社会主義運動の拠点は、生産点、つまり組織的な労働者の闘争におかれるようになった。この転換点は1871年のパリ・コンミューンである。アナーキストたちはいったん没落し、テロリズムに陥ったのであるが、方向転換して復活した。すなわち、労働組合を拠点とするサンディカリズムを唱え、社会主義革命をゼネストによって実現しようとした。しかし、闘争が激化し、一定の成果をあげ始めると、労働組合が合法化され、労使の闘争はたんに経済的なものとなり、ある意味で「労働市場」の一環となってしまった。ここからは、賃労働を廃棄するといった革命運動は育たない。レーニンは、労働者階級はそのままでは状況の変革はできない、彼らが階級意識に目覚め政治的な闘争に向かうためには、知識人による前衛党が必要であるとした。この主張を哲学的に論じたのがルカーチである。
産業資本は、あくまで商品交換の原理を貫徹しつつ、剰余価値を得るというシステムである。旧来の「階級闘争」の観念をもちこむことでは、対抗することはできない。だが、それは「階級闘争」が終わったということを意味するのではない。しかし、旧来の「階級闘争」の観念が無効なのは、それが生産過程を中心にしていたからだ。つまり、産業資本の特性を、その蓄積過程の総体において見る視点を欠いていたからである。
産業資本主義が発展すると、交換様式Cがあらゆる領域に深く浸透するようになった。それが劇的に進展したのが、1990年以後の「新自由主義」の段階である。先進資本主義国では、福祉、衣料、大学などのように、これまで相対的に資本主義経済の外に合った領域で、資本主義化が進められた。一言でいえば、交換様式Cが単に生産だけでなく、人間(労働力)の再生産の根底に浸透したのである。このような状況では、「生産過程」を中心においた見方では、資本への対抗は不可能である。対抗するためには、資本の蓄積過程を総体として見なければならない。
産業資本主義社会において、労働者は資本と三つの局面で対峙している。第一に、労働者は資本家に自らの労働力を商品として売るとき。この関係に「経済外的」強制はない。この点で労働者は奴隷や農奴とは異なる。第二は、雇用され労働するときである。ここでは、労働者は資本の命令に属しており、契約を履行しなければならない。この局面では、労働者は奴隷に似ている。しかし、労働者は賃金、労働時間・条件の改善のために抵抗してきた。この点で、第一の局面に戻っている。労働運動は、最初「奴隷の反乱」のようにみえるが、まもなく資本家によって許容され、制度化されるようになった。これは「労働市場」の望むところでもあった。この労働運動は「経済闘争」であったが、ルカーチのようなマルクス主義者は、労働者は「政治闘争」に立ち上がらねばならない、とした。
しかし、資本主義国家で、労働者階級が政治的・普遍的な闘争に立ち上がることは困難である。第一に、労働者が闘争を進める場合、解雇を覚悟しなければならない。第二に、生産点において、労働者は資本と同じ立場に立ちやすい。すなわち、同業他社との競争の中にあるという点である。その競争に勝つという点で、資本とプロレタリアは同じ目的をもつことになる。第三に、産業資本主義においては、プロレタリアは新たな消費者として出現したことである。労働者が、彼らが生産した物を買い戻す消費者となったとき、産業資本主義は、はじめて自己再生的システムとして自律性を獲得したのである。この第三の局面における闘争は政治的・普遍的な闘争とは違う。例えば、県境問題に関しては、消費者・住民が敏感であり、すぐに世界市民的な観点に立つことができる。消費者・住民の大部分はプロレタリアであるので、市民運動であれ、マイノリティやジェンダーの運動であれ、それらは労働者階級の運動と別のものとしてみなすべきではない。柄谷は書いている。「資本主義は。産点においてはプロレタリアを規制することができるし、積極的に協力させることもできる。ゆえに、そこでの抵抗は非常に困難である。これまで革命運動において、プロレタリアによる政治的ストライキが提唱されてきたが、それはいつも失敗してきた。しかし、流通過程において、資本はプロレタリアートを強制することはできない。働くことは強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力ないからだ」と。これらのことから、生産過程に対する過度の重視と流通過程の軽視が、資本の蓄積過程に対応した抵抗運動を損ねてきたことが、結論づけられる。
ここまで書いてくると、先日、このブログにノートを書いた、バルファキスの「テクノ封建制」が取り扱っていた、「消費者が奴隷となる」事態とどうかかわってくるか、考えてみたくなる。ただ、「テクノ封建制」では、資本ではなく、クラウド領主が奴隷を支配するのである。