2025年10月30日 柄谷行人「世界史の構造」

第4部 第1章 世界資本主義の段階と反復

4.資本の帝国

「テクノ封建制」に時間をとられてしまって、「世界史の構造」は3か月以上ご無沙汰してしまった。後少しで終わるので、がんばろう。

 1991年の湾岸戦争で、米国は絶対的軍事的ヘゲモニーを持ちながら、国連の支持を得て動こうとした。アントニオ・ネグリマイケル・ハートは、米国のやり方の中に、ローマ帝国に似たものを見出した。すなわち、この戦争によって合衆国が、それ自身の国家的動機に応じてではなく、グローバルな法権利の名において、国際的正義を管理運用することのできる唯一の権力として登場した、ということである。しかし、10年後、イラク戦争において、アメリカは国連の支持を得るどころか、それを公然と無視する「単独行動主義」に踏み切った。

 ネグリ&ハートが「帝国」と呼ぶのは、むしろ「世界市場」のことであり、これを軍事的に支えているかぎりでは、アメリカは帝国とされる。しかし、この見方はまちがっている。かれらは、この時点でアメリカがヘゲモニー国家であるという認識に立っているからである。このため、彼らの見方は、イギリスがヘゲモニー国家であった時代のマルクスの見方に類似してくる。マルクスは、「共産党宣言」(1848年)で、「普遍的交通」の下で、民族や国家の差異は無化されるだろうという展望を語った。ネグリ&ハートは「帝国」(世界市場)の下で国民国家が実質的に意味を失い、それに対して「マルチチュード」が対抗するだろうという見通しを語っている。マルチチュードとは、労働者階級だけでなく、マイノリティ、移民、原住民その他の多様な人間集団、いわば有象無象という意味のようである。マルクスの「世界は資本家とプロレタリアという二大階級の決戦になる」という予言と類似する。マルクスは、プロレタリアは労働者階級という狭い意味に限定されないとしている(註:この点、レーニンは、真のプロレタリアートでないルンペンプロレタリアートを自陣営から排除した)。つまり、資本主義がグローバル展開したとき、国家は消滅するか、という問題が論じられた。

5.次のヘゲモニー国家

柄谷は次のように論じている。すなわち、資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は消滅しない。それは、国家は商品交換の原理とは別の原理に立っているからだ。イギリスの「自由主義帝国主義」を支えたのは、強大な軍事力であり世界最大の課税であった。今日のアメリカの「新自由主義」についても同じである。さらに、1990年以後に進行した事態は、アメリカによる「帝国」の確立ではなく、多数の「帝国」の出現である。そして、それら多数の帝国のせめぎ合いが続く時代が、現代なのである。

 エレン・ウッドは、ネグリ&ハートを批判して、「グローバル資本主義にとって、国民国家の重要性が高まっている」と論じた。グローバリゼーションの政治的な形態は、グローバルな国家ではなく、複数の国家のグローバルなシステムである。地球規模にまで膨張した資本主義の経済的な権力と、国家の領土の内でこの権力を支える経済外的な力との間には、複雑で矛盾した関係が築かれている。そして、この関係の内から、新しい帝国主義に固有の姿が誕生してきた、とした。

 ヨーロッパ共同体(EU)の理論家たちは、それが近代の主権国家を超えるものだと主張している。しかし、国民国家が近代世界システムによって強いられたものだとしたら、地域的共同体も同様である。ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本に対抗するために、ヨーロッパ共同体を作り、経済的・軍事的な主権を上位組織に譲渡した。だが、これを近代国家の揚棄であるとは言えない。それは世界資本主義(世界市場)の圧力の下に、諸国家が結束して「広域国家」を形成したということでしかない(国家は消滅していない)。1930年代にドイツが構想した「第三帝国」や日本が構想した「大東亜共栄圏」は、このような広域国家に先駆けるものであり、米英仏の「ブロック経済」に対抗するものであった。こうした広域国家は、資本主義やネーション=ステートを越えるものとして表象されていた。また、「ヨーロッパ連邦」を作ろうとする構想はナポレオン以前からあり、その理念的な根拠は、旧来の「帝国」に存じた文化的同一性に見出される。しかし、結果として、フランスあるいはドイツの「帝国主義」にしかならなかった。現代のヨーロッパ共同体の形成にあたって、ヨーロッパの指導者たち、そのような過去を忘れてはいない。しかし、彼らが帝国主義でないような「帝国」を実現しようとしても、それはあくまで、世界経済の中での「広域国家」でしかない。

 ここで注目すべきなのは、「帝国」が他の地域で出現しつつあることだ。すなわち、中国、インド、イスラム圏、ロシアなど、近代世界システムでは周辺部におかれてきた旧来の「世界帝国」が再登場したことである。しかし、広域国家としての帝国だとすれば、それらの内部は、分裂と抗争の生々しい過去がある。だが、諸国家がネーションとしてのそれぞれの記憶をカッコに入れ、自らの主権を大幅に制限して共同体を結成するとしたら、彼らが現在の世界資本主義の圧力のほうを切実に感じているからである。エルネスト・ルナンはネーションが形成されるためには歴史の忘却が必要だと述べたが、同じことが広域国家の形成についてもいえる。

 こうした広域国家のはてに新しいヘゲモニー国家が成立するであろうか。歴史によれば、「帝国主義的」な状態が60年ほど続き、あの後に、新たなヘゲモニー国家が生まれた。しかし、今後はそのようなことは起こり得ないであろう。中国やインドは経済的な大国となること、そして、それらが旧来の経済大国と争うことはまちがいない。柄谷は、二つの理由をあげている。第一に、一国がヘゲモニー国家となるには、経済的な優位以外の何かを必要とするからだ。第二に、中国やインドの発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるからだ、としている。

 産業資本主義の成長は、次の三つの条件を前提としている。第一に、産業的体制の外に、「自然」が無尽蔵にあるという前提である。第二に、資本制経済の「人間的自然」(註:労働力)が無尽蔵にあるという前提である。第三に、技術革新が無限に進むという前提である。この三つの条件は、1990年以後、急速に失われている。まず、中国やインドの産業発展は大規模であるので、資源の払底、自然破壊に帰結する。第二に、中国やインドには世界農業人口の過半数が存在した。それがなくなることは、新たなプロレタリアート=消費者をもたらす源泉がなくなるということだ。これらの二つの事態は、グローバルな資本の自己増殖を不可能にする。

 もちろん、資本の終わりは、人間の生産や交換の終わりを意味しない(註:歴史を逆行してみれば)。しかし、国家はなんとしてでも資本的蓄積の存続をはかるだろう。そのとき、商品交換様式Cがドミナントである世界は、国家による暴力的な占有・強奪に基づく世界に退行する。したがって、資本主義の全般的危機において最も起こりやすいのは、戦争である。このことは、常に念頭においておかねばならない。