2025年6月3日 投稿
第4章 アソシエーショニズム
8.ファシズムの問題
マルクス主義者は資本主義を国家によって制御しようとして(世界革命が起こらなかったため)、国民の罠にはまってしまった。ここで付記するのは、もう一つの躓きである。「共産党宣言」では、プロレタリアートは祖国を持たない、としている。ゆえに、諸国家を越えたブルジョアジーとプロレタリアートという二大階級の決戦が、世界革命として行われると、マルクス主義者は期待した。しかし、実際は逆で、この時期から階級闘争と並んで、民族問題が重大となったのである。
既に本書に述べられているように、ネーションは国家とは別の自律的な存在である。ネーションは共同体あるいは互酬的交換様式Aの想像的回復であり、平等主義的である。そのため、ナショナリズムと社会主義の運動には紛らわしい類似点がある。例えば、植民地状態から民族解放を目指す運動において、社会主義はナショナリズムと融合する。植民地では、国の資本が支配国に従属的なので、社会主義者でなければナショナリズムを実行できない。このような国では、社会主義とナショナリズムが同一視されても仕方がない。問題は、発達した産業資本主義国家においてナショナリズムが社会主義的な外見をもって現れることである。それがファシズムである。ナチスの党名はナショナル社会主義ドイツ労働者党であった。つまり、ネーションによって、資本と国家を越えようとする運動である。もちろん、ネーションは「資本主義と国家を乗り越える夢」だけを与える。ファシズムはこの夢(実際は悪夢だが)ゆえに強い魅力をもつ。
柄谷は、多くの地域でマルクス主義の運動がファシズムに屈したのは、ネーションを単なる上部構造だとみなしたことだ、と書いている。ナチズムは交換様式Aの想像的回復としてのネーションを活用した。それは一見すると社会主義を約束するように見える。例えば、ムッソリーニはもともと社会党(第一次大戦に反対した)のリーダーであり、資本と国家への反逆という信念を有していた。また、ナチスの「突撃隊」は、資本と官僚国家に敵対するアナーキストであった。彼らは、ナチズム(ナショナル社会主義)を資本と国家をネーションによって超えるものとみなした。ハイデガーはこの点に惹きつけられた。日本では、1930年代に影響力をもった農本主義者権藤成卿が、日本村治派同盟を「反都市」「反資本主義」「反近代」が共通認識の基に結成した。彼は井上日召とも交流があり、ファシズムに接する位置にいた。いずれにせよ、
資本主義的な経済の中で生じる階級的分解や疎外という現実に対して、交換様式Aを想像的に回復するもののようにみえると、柄谷は論じている。しかし、ここでは、ファシズムが社会共同体をどう歪めたか、についての言及が少ない。残された課題としているのであろうか。
9.福祉国家主義
1990年以後、先進国の左翼は、旧来のような革命を完全に放棄した。市場経済を認め、それがもたらす諸矛盾を、民主的手続きによる公共的合意、そして再分配によって解決しようとする考えに達した。つまり、福祉国家主義あるいは社会民主主義に落ち着いた。これは、資本=ネーション=ステートの枠組みを肯定することであり、その外に出るという考えを放棄することである。それは、フランシス・フクヤマが「歴史の終焉」と読んだ事態なのである。
先進資本主義国で、ソ連型社会主義に対抗するために、福祉国家主義がとられてきた。これを積極的に根拠づけようとした理論家が、ジョン・ロールズである。ロールズは「正義は、社会制度の第一の徳目であって、これは真理が思想体系の第一の徳目であるのと同様である」とする。ロールズは、このように「正義」から始める方法をカント的であると考えた。ある意味では、その通りかもしれないが、柄谷はまるで違うと述べている。カントが考える正義が「交換的正義」であるのに対して、ロールズのいう正義は「分配的正義」である。それは、資本主義的市場経済がもたらす格差を、国家による再分配によって解消するというものである。それは不平等を生み出すメカニズムには手を出さないで、その結果を国家によって是正しようとするものだ。一方、交換的正義は、格差を生み出すような資本主義経済を廃棄せよ、という考えに行きつく。
カントはイギリスの経験主義的な道徳理論を批判した。それは、善は幸福にあり、かつまた、幸福は経済的な富に還元される、と考える功利主義と、道徳を同情のような「道徳感情」から考えたアダム・スミスのような考えの二つである。カントはその両方を批判し、道徳性を「自由」に求めた。この「自由」とは、自己原因的(自発的・自律的)である。利益、幸福、道徳感情のようなものは感性的であるから自然原因に規定されている(註:対比的である)から、それに基づくことでは「自由」はありえない。また、この「自由」は他人の自由を犠牲にするものではありえない。ここに、「他者を手段としてのみならず、同時に目的(自由な存在)として扱え」ということが、先験的な道徳法則(至上命令)として見出される。つまり、「自由の相互性」である。カントの倫理学はたんに主観的なものだと考えられてきた。しかし、「自由の相 互性」が、現実に他者との経済的な関係の問題と切り離せないことを、カント自身が明瞭に意識していた。ロールズはむしろ功利主義にもとづいて、「善」を考え、分配による「平等」を考えている。そこでは、「自由の相互性」が考えられていない。言い換えれば、資本主義的な資本と賃労働の関係が不問に付されている。カントのいう道徳性が資本主義批判と密接につながっていることは、一般に無視されている。同じように、マルクスにおける社会主義が道徳的問題であることも、一般に無視されている。
ここまでで、本書第三部が終了。400ページ読んだことになる。残るは、第四部「現在と未来」である。GAFAMがはびこり、生成AIの世界に、柄谷理論が通じるかどうかまで考えてみたい。