地震について二題 (2025年5月10日投稿)

1995年1月17日阪神淡路大震災

最近、村上春樹の短編をドラマ化した作品をいくつかテレビで観た。1995年1月17日の阪神淡路大震災が影を落としている作品群である。小説でも、ドラマでも、出だしは、主人公の妻が地震の被害を告げるテレビの映像を見ているところである。僕は、この地震のとき新大阪のホテルに泊まっていたので、よく覚えている。前夜遅く、新大阪に着き、ビジネスホテルに入った。早朝の、まだ普通に寝ているところに激しい揺れが来た。並みの揺れとは強度が違った。ただ、窓の外を見ると、高速道路には普通に車が走っていた。すぐに横浜の自宅に電話をして、強い地震だったことを連絡した。テレビを見ても、まだ地震の詳細は分からなかった。ただ、淡路島が震源らしいとの情報が流れていた。僕が泊まった部屋は15階だったが、エレベーターが停まっていたので、歩いて1階に下りた。ホテルは普通に、無料の朝食を提供していたので、それを食べ、歩いて15階まで戻った。

 この日は、僕が研究代表者を務めていた、文部省科研費重点領域研究「ストレス応答の分子機構」の公開ワークショップが、千里中央の千里ライフサイエンスセンターで行われることになっていた。ホテルを出て、すぐにタクシーを拾い(電車は止まっていた)、会場に行った。既に交通網が大混乱になっていたので、ワークショップの中止を決めた。それでも、10数人の班員が集まっていたので、手分けして、班員全員に、夕刻からの合同班会議は行う旨の連絡を行った。合同班会議は近鉄京都新田辺の京都厚生年金休暇センターで行うことになっていた。千里中央駅から会場までは、あらかじめチャーターしてあった大型バスで、なんとかたどり着いた。この班会議は、河野憲二さん(奈良先端大)と米田悦啓さん(阪大医)が世話人だった。混乱の中、班員たちが続々と到着した。皆のこの領域研究にかける熱意が伝わった。中でも、三原勝芳さん(九大医)は、新幹線が広島で止まったので、一度博多に戻り、空路大阪経由で会場に来られた。結局、班員57名の内、欠席は神戸大の2名と東京の1名だった。

 班会議は順調に進行したが、休憩時間に診るテレビが、時々刻々と増えて行く被災者の数と、延々と燃えている神戸の街が、班員の心に重くのしかかった。僕がまず思ったのは、去年冬、分子生物学会が神戸であったとき、仲間たちと二日続けて食べに行った元町の群愛飯店が焼けているのではないか、ということだった。そのとき、コースを食べたのだが、たった一切れの北京ダックの皮が供されたのを覚えていた。もちろん、こんなことは、そのとき誰にも話さなかった。19日、地震の影響は時間と共に大きくなっていたが、班会議は無事終え、僕は河野憲二さんの案内で、奈良先端大を見学して、遅れ気味ながらも京都からの新幹線で家に戻れた。

2011年3月11日東日本大震災

このとき、僕は東海道新幹線上りの車中で、新富士駅の近くだった。地震は社内アナウンスで知った。列車は1時間程度止まったままだったが、やがてのろのろと新富士駅に着いた。結局、この後も、ノロノロ運転ではあったが、運のよいことに降りる駅新横浜に到着した。駅の周囲は、JR横浜線横浜市営地下鉄などが動いていなかったので、タクシー待ちなどの人たちで一杯だった。僕は自宅まで歩いて帰った(25分程度)。

 この前日、3月10日に、共同研究していた坂口志文さん(当時、京大と阪大)のところに用事があり、京都にいた。同じ日に、京産大総合生命科学部開設記念シンポジウムがあり、僕はシンポジウムには出られなかったが、その後の飲み会に参加した。飲み会は、京都の旅館で行われ、永田和宏さんの話などでよく触れられる、生命科学のいわゆる「七人の侍」のメンバーと僕が集まった(写真)。僕は翌朝一番の仕事が京大であったので、当時凝っていた「RNA結合タンパク質のプロファイリング」の話をした程度で、早々にホテルに切り上げた。皆は、写真でわかるように、周囲に既に布団が敷いてあり、深夜まで大酒盛りが続いたはずである。翌11日は、京大に寄ってから、細見美術館に出かけた。若冲の、色を抑えたいくつかの作品などを観た。昼頃の新幹線に乗って、家に戻ろうとしていたのである。

七人の侍メンバーと。昨年夏、急逝された田中啓二さんが一番手前に写っている。る。

 大津波の惨状はリアルタイムでは見られなかったが、夜から翌日にかけて、嫌でも目に入ってきた。仙台に近い名取は、海岸から平野が広がる土地なので、津波の被害が酷いようだった。その一角の小高くなった丘の上に、宮城県がんセンターが位置していた。僕は、前年に、仕事の件で同がんセンター総長の菅村和夫さんを訪ねていたので、そのあたりの地形は覚えていた。それでも気になったので、翌日メールを出した。すぐに返信をいただいたが、被災者の医療や検死に医師は全員、がんセンター総長といえども、駆り出されているとのことだった。後日、同じように地震の被災者救援に、東北大医学部の医師たちが従事したという話を、何度かうかがった。