2025年5月1日 投稿
第4章 アソシエ―ショニズム
6.世界同時革命
マルクスは、プルードン派がパリ。コンミューンへの蜂起を企てたとき、パリは戦勝国プロイセンに包囲されており、その成功は不可能であるという理由で反対した。このマルクスの危惧は現実となった。マルクスは「ドイツ・イデオロギー」において、「
共産主義は、<経験的には>、主要な諸民族が<一挙に>、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的な発展とそれに結びついた世界交通を前提としている」とした。註:なんの経験なのか不明。むしろ<理論的には>、ではなかろうか。
実際にコンミューンが決行されると、マルクスはそれを支援し、賞賛の言葉を贈った。しかし、これはマルクスの真意ではなかったが、その本意を公的に明示しなかった。後に、マルクスの批判を知っていながら、レーニンとトロツキーは10月革命を強行した。その結果は、最先端の資本主義国家を残したまま、一国社会主義が生まれたのである。柄谷によれば、1848年に考えられていた世界同時革命の前提条件は、もはやありえない。しかし、それは「世界同時革命」がもはやありえない、ということではない。柄谷は「しかし、それは可能なのだ」と書いている。それは、第四部の最終章に述べられる。
7.永続革命と段階の「飛び越え」
1848年革命は世界同時的であった。イタリア(シチリア革命など)、フランス(2月革命、第二共和制)、オーストラリアとドイツ(3月革命)などで、この後、第一インターナショナルが結成された。この背景があったから、1971年のパリ・コンミューンが世界革命に発展すると、活動家たちは考えた(マルクスは否定的だった)。
1848年革命の敗北は、反革命によるものではなく、国民国家による対抗革命(counter-revolution)の結果である。どういうことかというと、社会主義運動あるいはプロレタリア階級を意識した国家による政治体制が築かれたのである。労働者階級の要求の多くは入れられ、福祉政策が行われるようになった。フランスでは、皇帝に就任したルイ・ボナパルトが、サン・シモン主義者として、国家による産業資本主義の発展と同時に労働問題を解決するという、矛盾した課題を同時的に果たそうとした。ボナパルトは「第一インターナショナル」の形成を後援さえした。プロイセンでは、ビスマルクも同じように、国家による産業資本主義の発展と労働問題の解決を目指した。ビスマルクの国家資本主義は、彼の友人であったラッサールの「国家社会主義」に呼応するものであった。つまり、社会主義者が国家権力に直接あるいは間接的に参与するようになり、資本の専制が規制されるようになった。
晩年のエンゲルスは、少なくともヨーロッパにおいては、イギリスが平和的な合法的な手段をもって不可逆的な社会革命を遂行しうる唯一の国である、とした。また、ドイツで社会民主党が議会で躍進したとき、エンゲルスは、ドイツもそのような国になったと考えた。このエンゲルスの考えは、ベルンシュタイン(社会福祉国家)やカウツキー(社会民主主義)によって、政治的立場は違うが、引き継がれた。
しかし、これらの考えは、資本=ネーション=ステートが確立した状態でのみ成立する。この資本=ネーション=ステートというシステムは、政界システムの中に複数存在するので、お互いが競合して存在している。あるシステムが競合に敗れて存立が危うくなると、とたんに社会民主主義は放棄されてしまう。そのような競合である、第一次世界大戦が勃発すると、ベルンシュタインもカウツキーも、ドイツ国家を支持したのである(このブログの別の項で述べた、トーマス・マンもそうだった)。この結果、第二インターナショナルは解散し、国際的な社会主義運動は終わってしまった。
先進資本主義国で、旧来のような革命運動成立しないことが明らかとなった。この結果、マルクス主義者は、古典的な革命運動や階級闘争がまだ存在している周辺部の革命に向かった。その口火をきったのが第一次ロシア革命(1905年)であった。この結果を受けて、トロツキーとローザ・ルクセンブルグは、社会主義革命は資本主義がもっとも進んだ段階でのみ起こる、という従来のマルクス主義の通念を修正する方針を主張した。ローザ・ルクセンブルグは、先進国の資本の蓄積が後進国(周辺部)からの収奪によって成り立つという理論から、周辺部での革命は先進国の資本蓄積に打撃をあたえるものとして位置付けた。トロツキーは、産業資本が十分に発達していないドイツにおいて、まずブルジョア革命が起こり、続いて一挙に社会主義革命を押し進めるという、いわゆる「永続革命」(初期マルクスの理論から引き出す)の理論を実践しようとした。これらが、マルクスの歴史的段階の「飛び越え」(この項目のタイトルになっている)である。
第一次世界大戦で、1917年2月、ロシアは連合国側であったが、敗色が濃いときいに帝政が崩壊する革命が起こった。議会と評議会(ソヴィエト)の二重権力の状態となった。社会民主労働党のメンシェヴィキと社会革命党が多数であり、社会民主労働党のボリシェヴィキは少数派だった。ところが、10月に、トロツキーとレーニンは、「全権力をソヴィエトへ」という名目のクーデターを起こした。実際には、議会を閉鎖し、ソヴィエトから他の党派を追放し、ボリシェヴィキの独裁が始まった。彼らは、ヨーロッパの「世界革命」が続いて起こることを期待したが、起こらなかった。起こらなかったどころか、他国の干渉や侵略が始まった。この他国の干渉から革命を防御するには、強力な国家機構を再建しなければならなかった。こうして、党=国家官僚の専制的支配体制がまもなくできあがった。この後すぐ、スターリンによる「一国社会主義論」がコミンテルンで採択された(1924)。
ヨーロッパにおいては、ブルジョアジーが絶対王政を暴力革命によって倒し、絶対王政が築いた基盤の上に、資本主義経済を発展させたのである。マルクスは、ここから社会主義革命が始まるとしていた。ところが、かつて植民地体制下にあった産業資本主義的に後進的な地域では、民族の独立や社会変革を目指すのは、社会主義者しかいなかったのである。後進地域では、絶対王権あるいはブルジョア革命が果たしたことを、社会主義者がやらねばならない。これは当然のことであり、称賛されるべきことである。柄谷は、「ただ彼らが批判されるべきは、彼らが実行したことを『社会主義』とよんだことである」と書いている。さらに、「そのことによって、社会主義という理念が回復不可能なまでに傷つけられた。そして、その原因は、『永続革命』と『段階の飛び越え』という観念にある」としている。要するに、生まれた「社会主義国家」は、まるで社会主義の社会ではない、ということである。