2025年2月26日 投稿

多田富雄さんの「免疫の意味論」について

多田富雄さんと僕は、いわゆる親しい友人ではないし、また仕事仲間でもない。ただ、どちらも酒好きなので、二人が写っている写真はどれも酒席である(しかし、そう頻繁にあるわけではない)。以下の写真は、多田さんと僕の共通の酒飲み仲間である井川洋二さんの三人がお茶の水の小川軒で、井川さん秘蔵のChambolle-Musigny1934年(井川さんの生まれた年)を飲んだときに撮ったものである(1998年11月)。ちなみに、多田さんも1934年生まれ(僕は1937年生まれ)である。もう一枚は、これも井川さんが主催した会で、ワインを飲んでいるところである(2001年3月)。

写真:1998年11月19日

写真:2001年3月23日 左端に小安さんが写っている。


 本題に入る。多田さんの「免疫の意味論」は専門家外、とくに文系の人たちから高く評価されてきた。では、専門家はというと、「スーパーシステムなど、わからない」と言う人が多い。実は、ここで言う「専門家」は、多田さんの専門家としての研究も「わからない」のではないか、と僕は思っている。多田さんが亡くなられて、「免疫の意味論―多田富雄の仕事」、という特集が雑誌現代思想で組まれた。その中に、僕は多田さん畢生のテーマ「I-Jの拘束性」について、かなり長い文章をまとめた。出だしの肝要なところを少し長くなるが引用する。『多田富雄の研究者としての人生を語るときに、<I-J表現型>の問題を避けて通るわけにはゆかない。多田らが精力をこめて展開してきた、サプレッサーT細胞とその反応性を規定するI-Jの研究は、遺伝学的に決定された染色体の位置にI-J遺伝子がなかったことによって、大きな転換を強いられた(1983)。「I-J遺伝子がマウス遺伝学によって予測された位置にない」ということは、I-Jのアロタイプ(同じ遺伝子座にあるが系統によって異なる遺伝子アリルに支配された)が異なる3Rマウス(I-Ab, I-Jb)と5Rマウス(I-Ab, I-Jk)で、I-A遺伝子とI-E遺伝子の間の塩基配列が完全に同じであったことによって明快にしめされた(この論文は多田も共著者となっている)。しかし、私は、多田の本領は、むしろこの後に発揮されたと考える。以後の多田の研究は、I-J遺伝子が予期したところにないことを前提に組み立てられた』。この「以後の多田の研究」は、概略できない複雑な内容を含んでいるので、興味のある読者は、「現代思想」(2010年7月)の拙論を読んでいただきたい。そこでは、いまではもう当然のこととなっているepigenetic研究の領域にまで踏み込んだ解析がなされた。東大を退官するまでの10年間、残念ながら有効な成果を生むことはできなかったが、その苦闘がにじみ出た研究は、僕にとっては貴重に思える。

 さて、「免疫の意味論」だが、多田さんが僕の考察に触れている一文がある。引用してみる。「矢原一郎氏によれば、インターロイキンの本性は、まずさまざまな異なった細胞が同一のインターロイキンを作り出すところの冗長性(redundancy)と、さらに、一つのインターロイキンにはさまざまな標的細胞に働き得るという不確実性(degeneracyママ)である。・・」(P84)。ここで、degeneracyはambiguity(多義性)としたほうがいい。ここで、多田さんが述べたかったのは、多くのインターロイキンの作用による膨大なネットワークが、インターロイキン王国(多田による命名)という体制を築き、免疫学に新しいパラダイムとなったことである。この王国の持つ本質的な不確かさに、多田さんは注目した。ただ、僕がインターロイキン(あるいはサイトカイン)の作用特性に注目したのは、それが、まさにvon Neumanのモデルに従っていることによる。Von Neumanは不完全な素子を使って、なるべく誤った伝達をしない情報伝達回路を作成するには、図のような回路が適していると述べている(図1)。

図1:僕の原図


ただし、この回路の入り口の複数の素子と出口の複数の素子の間の連結が交換可能(random permutation)になっていることが肝要である。ここで言う、免疫ネットワークの入り口と出口は、例えば、病原体の感染と成体防御系の発動、あるいは花粉とアレルギー反応などを指す。しかし、インターロイキン王国は、侵入者に対する「免疫の戦い」としてあまりにも美化されてきた聖戦のイメージとはまったく違う体制をもち、本質的な不確かさを有する、と多田さんは述べている。さらに、彼は、非自己に対しまとまった反応を起こすという従来の免疫の概念とは違う、その素子の冗長性と曖昧性のために、不安定な自己認識の体制を見た。僕は、インターロイキン(サイトカイン)の問題について、多田さんと文書によるやりとりが少しはあったが、酒を飲みながら議論したことは一度もない。

 多田さんと僕は、まったく相いれない話が一つあった。それは、多田さんが能楽の師としていた橋岡久馬さんのことである。僕は、橋岡さんの能が嫌いで、そのことは多田さんも知っていた。しかし、その話は避けて、僕と多田さんとは、能の会とか、彼の小鼓のおさらい会などには、何回か一緒に行ったことがある。多田さんには、舞台の写真が沢山あるので載せないが、僕の写真を証拠として一つだけ示しておく。

1970年5月31日 観世能楽堂(当時、大曲にあった)にて。仕舞「屋島」。