2024年9月15日
第三部 近代世界システム
第二章 産業資本
1.商人資本と産業資本
商品交換様式Cがドミナントであるような社会構成体は、産業資本主義とともにあらわれた。交易や市場の拡大は資本主義経済の必要条件ではあるが、十分条件ではない。例えば、世界市場に向けられた商品生産は、東ヨーロッパでは「再版農奴制」を、また、ラテン・アメリカでは新たな奴隷制をもたらした。商品交換様式Cが交換様式BやAの抵抗を越えるためには、ある変化が生じなければならない。では、それは何か。
産業資本主義はそれまでの資本主義とどこが違うのか。この問題を最初に扱ったのはアダム・スミスである。彼は、商人資本は安く買って高く売る差額から利潤を得るのに対し、産業資本は生産性の向上によって利潤を得ると主張した。ウェーバーは、産業資本主義の根底に、商品資本主義における利益追求や消費欲望を断念し、代わって勤勉な労働のエートスを見ようとした。これに対し、産業資本主義を、根本的に商人資本主義の延長であると、ヴェルナー・ゾンバルトはウェーバーに反対した。彼は、産業資本主義を商人資本主義の延長であるとみなし、資本主義的発展の契機を、禁欲よりも奢侈を求める欲望に見た。消費社会になり、ゾンバルトの考えは高く評価されるようになった。
しかし、以上のような見方は、どれも産業資本主義の一面しか見ていない。柄谷は、産業資本主義を両面(生産と消費)から明らかにしたのは、やはりマルクスであるとする。マルクスはスミスのような立場に立っているとみなされているが、彼が古典派と異なるのは、流通過程に焦点を当てたところにある。マルクスは、資本主義が交換様式Cから生まれたという認識に基づいて考え、産業資本が交換による差額から利益を得る点で、商人資本と変わらないと考えた。本書のP146に書いてあるように、産業資本もM-C-Mの範式の中で利益を得る。しかし、この式の中に不等価交換はない。では、等価交換からどうして利潤が得られるのか。この題は異なる価値体系の間の商品交換を想定することで解決できる。商人がある物をやすい場所で買って高いところで売れば、それぞれ等価交換でありながら、剰余価値を得られる。スミスはピンの製造を例にとって、商人資本が生産に関与する場合を論じた。一方、産業資本も生産過程における技術革新からだけでなく、より安い原料と労働力、さらに消費者を求めて「遠隔地」に赴く。それゆえ、商人資本と産業資本の差異は、単に流通過程や生産過程を見るだけでは明記できない。
2.労働力商品
マルクスは流通過程を重視した重商主義者と生産過程を重視した古典派のどちらをも批判した。彼は、産業資本における剰余価値が、単なる流通過程でもなく、単なる生産過程でもないようなところで得られると考えた。つまり、Mで商品Cを買い、売るときにM+ΔMとして剰余を出すが、ΔMを生む商品は使用することが生産過程であるような商品、つまり労働力なのである。産業資本の価値増殖過程は、M-C‥P‥C‘-M’という公式で示される。
マルクスは産業プロレタリアを「二重の意味で自由な」人々として見た。第一に、かれらは、さまざまな封建的拘束にとらわれず、自由に労働力を売ることができる。第二に、かれらは労働力以外に売るものをもっていない。つまり、生産手段(土地)から自由である。この二種類の自由は不可分離である。第一の「自由」は、労働力の売買についての契約(雇用契約)にのみ縛られるが、それ以外の自由である。第二の「自由」は、普通の意味での「自由」ではない。プロレタリアは生産手段には一切かかわりがない(その意味で自由)ので、生産物である生活物質(商品)を、労働力を売ったお金で、買わなければならない。小作農民が生産物の大部分を献納しても、一部を自給自足に回すことができるのと、大違いである。産業資本主義経済において、労働者の消費は、労働力を再生産するのであるから、資本の蓄積過程の一環でもある。労働者が自ら作った商品を買い、そこに生じる差額(剰余価値)によって、産業資本は増大する。
柄谷は書いている。プロレタリアという語には、どうしても貧窮者というイメージがつきまとう。今日、ホワイト・カラーと名付けられる人たちは、紛れもなく賃労働者であるにもかかわらず、自身をプロレタリアと考えない。プロレタリアは貧しい肉体労働者だという固定観念があるからだ。したがって、柄谷は、本書でプロレタリアという語の使用を控え、賃労働者と呼ぶことにする。
3.産業資本の自己増殖
資本は資本一般あるいは総資本として見る場合と、個別の資本として見る場合があり、この区別は重要である。本書には、産業資本の特性は、労働者が資本の下で自らが作ったものを買い戻すシステムにある、と書いた。しかし、これは総資本と総労働についてしか該当しない。個別の労働者は、自分の作ったものより、他の労働者が作った物を多く買う。
マルクスからの引用(略記):どの資本家も自分の労働者の賃金を制限したい、つまり消費能力を少なくしたいと思っている。一方、他の資本家の労働者が自分の商品の大きな消費者であることを望んでいる。ここでは、労働者が消費者および交換価値措定者として資本に相対するので、労働者としての規定性が消し去られている。
総資本と個別資本の違いは明白である。危機の際しては、個々の資本家の意思に反して、総資本があらわれる。それも「国家」というかたちであらわれる。例えば、1930年代の大不況において、国家=総資本は、ケインズ主義(公共投資)あるいはフォーディズム(フォード主義:生産性の向上と労働者の賃金と購買力の上昇)のような、個別の資本がとれない政策をとった。しかし、この違いは、資本主義の本質、つまり資本の自己増殖、あるいは剰余価値の実現については変わらない。総資本は総労働に対し等価交換を行い、それでもなお剰余価値を生むのである。
スミスやリカードは、個々の労働者は、資本家が組織した分業と協業を通じてなしとげた生産の全成果を要求することはできないとした。その増加分(利潤)はそれを考案し組織した資本家が受け取るべきと考えた。しかし、リカード派の社会主義者やプルードンは、その増加分が「剰余価値」であり、本来労働者に帰属すべきものであると主張した。つまり、搾取が行われているというわけだ。マルクスもこのような見方を受け継いでいる。マルクスは労働時間の延長や労働強化によって得られる剰余価値(註:これはもはや等価交換ではない)とよび、技術開発=生産性の向上によってもたらされる剰余価値を「相対的剰余価値」と呼んだ。資本論の「絶対的剰余価値」に関する記述はよく知られているが、むしろ大事なのは「相対的剰余価値」である。ここにこそ、産業資本の精髄があるからである。しかし、生産性向上で増えた生産物はだれが消費するのか。生産した労働者の賃金では買えない。つまり閉じた生産・価値体系の中だけでは、成り立たない。そこで、外国の市場を拡大するか、共同体の中に新たな消費者=労働者(プロレタリア)を参入させなくてはならない。資本が蓄積を続けるためには、絶えず新たなプロレタリアが必要である。
今回は、ここまでにしておく。産業資本主義の原理を扱ったおり、本書の記述だけでは、不十分な印象を受けた(僕にとっては)。以後も産業資本主義についての記述が続いているので、期待したい。
次項は、4.産業資本主義の起源、についてである。