2024年7月29日投稿

雑録6

柄谷行人とのすれ違い

昨年出版された新書本「柄谷行人『力と交換様式』を読む」に、彼の東大教養学部での生活が少し書かれている。柄谷は1960年に東大に入学し、しばらくしてから、駒場寮に移り、社研(社会科学研究会)や歴研(歴史研究会)で寝起きしていた。これらの部屋には、当時真っ最中っだった安保闘争にかかわる学生が、寮生以外も含めて多数が出入りし、議論などしていた。その仲間に、上級生の西部邁(経済学)、坂野潤二(歴史学)、加藤尚武(哲学)たちがいたという。僕は、柄谷より3年早く入学したので、彼が駒場にきたときには、本郷の理学部に移っていた。僕は、駒場では自然弁証法研究会(自弁研)というわけのわからない部(当時はサークルなどといわなかった)に所属していて、議論ばかりしていた。そして、本郷では、1959年理学部自治会委員長、1960年東大学生自治会中央委員会副委員長だったが、委員長が安保闘争で逮捕拘束されていたので、委員長に繰り上がり、やたらにがさがさした生活を送っていた。その関係で、駒場にもときに出かけた。上記の、西部、坂野、加藤の3人とは飯を食ったり、議論したりした(酒は飲まなかった)。寮の社研の部屋などにも出かけたはずであるが、柄谷と話をした記憶がない。おそらく、柄谷は活動家というより、学究肌の人で、僕が加わった議論には興味がなかったのだと、思われる。

 この前、古い書類を整理していたとき、駒場時代に書いた僕の文章が載った冊子をみつけた。東京大学教養学部学友会の雑誌で、上記の加藤尚武と共同で論文を発表していた。他愛のない内容だが、当時を思い出す、きっかけとはなる。

冊子の表紙 昭和33年6月発行

目次

論文