2024年7月26日

(前回からの続き)

第四章 普遍宗教

6.キリスト教

エスが普遍宗教の人として、現れたことが記されている。新約聖書からその例を示す。まず、司祭・律法学者への批判がある。次に、家族・共同体への拒否がある。イエスは次のように言う。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカによる福音書)。さらに、イエス貨幣経済私有財産がもたらす富の不平等・階級社会に抗議する。そして、イエスは「神を愛せよ」と「自分を愛するように隣人を愛せよ」と説く。イエスのいう「愛」は単に心の問題ではなく、「無償の贈与」を意味している。イエスの教団は、エンゲルスやカウツキーが強調したように、「共産主義」的であった」。このようなコミュニズムはイエスが初めてもたらしたものではなく、ユダヤ教の一派であるエネッセ派において見られた。実際に、一派をキリスト教に仕立てたのはパウロである。パウロは教団から、濃厚にユダヤ的であった律法や習慣を廃棄した。かくして、イエス=キリストの教えは、ユダヤ教を越えてローマ帝国(世界帝国)に浸透し始めた。しかし、それとともに、キリスト教団も変質した。最初、使徒たちは遊牧民のように平等主義的な集団であったが、布教が進みいわば定住者の集団になった。その集団は、司祭(祭司)によって統治された、彼らが否定してきたパリサイ派教団組織に似てきた。また、教会はローマ帝国に対し迎合的になった。そして、テオドシウス帝のときに国教となった(392年、本書では380年となっている)。帝の没後(395年)、帝国は2つに分裂した。かくして、キリスト教世界宗教となったが、普遍宗教ではなくなった。

7.異端と千年王国

西ローマ帝国の滅亡以来、貨幣経済と都市は衰退し、社会は封建諸侯によって支配された農業協同体となった。キリスト教は、冬至春分の農耕儀礼をクリスマスやイースターとよぶような旧来の祭礼や慣習に戻った。しかし、キリスト教が不可欠だったのは、帝国滅亡後の世界で、各地に濫立した王国や封建諸侯をまとめるイデオロギーのためだった。実際には、ローマ教会がそれと担った。

 どの宗教でもそうだが、キリスト教も「原始キリスト教へ帰れ」という運動をつねに内包していた。12世紀になって、キリスト教は息を吹き返した。具体的には、11世紀に出現したカタリ派は、「神の国」がこの世に実現されると考えた。また、神(超越者)は個々人に内在するという見方もした。これは、聖職者のハイアラーキーを否定し、万人の平等という考えを導く。当然、教会はこれを異端とし、封建領主にとっても脅威となった。その結果、カタリ派は教会と封建領主の結託(アルビジョア十字軍)によって殲滅された。12世紀に現れたワルド―派は、創始者がイエスのような清貧の生活を目指した運動で、この運動も教会によって異端とされ、弾圧された。しかし、同じようなアッシジのフランシスコや、ドミニクの修道会は承認された。教会もまた、自身を脅かさない範囲で、改革する必要があった。

 16世紀になってルターが出た。ルターの教会の権威批判は、ルター自身は神学論争のつもりだったが、教会の支配に疑問的だった農民や諸侯によって支持され、農民戦争となった。ルターは過激な運動を拒否し、弾圧するほうにまわった。ルターがカール5世から帝国追放の刑を受けた身ながら、その宗教改革が教会に重視されるのは、農民戦争を弾圧する側に立ったからである。ドイツの農民戦争を率いたのは、ルターの弟子のトーマス・ミュンツァーであった。エンゲルスは、ミュンツアーの政治綱領は共産主義に通じているとした。この綱領によれば、階級差別も、私的所有も、外的な国家権力も、存在しない社会構成体を意図しており、柄谷によれば、普遍宗教に包含される交換様式Dに相当する

 柄谷は、普遍宗教によって開示された交換様式Dが、しばしば異端的な宗派の運動をとったことを指摘する。また、普遍宗教を自らの根拠づけのために導入した国家は、その結果、普遍宗教が開示する「法」を受け入れることで自己規制するようになった。例えば、ヨーロッパでは、教会が国家の中で定着するにつれ、教会法がゲルマン法やローマ法に由来する世俗法の影響下に形成された。教会法は、弱者(貧者、病人、寡婦、旅人)の保護、刑罰の人道化、裁判の合理化、私闘(フェーデ)の抑圧と平和の確保(神の平和、神の休戦)を志向した。また、近代の西洋諸国法の形成において、法や国家の倫理的基礎に関する理論や、国際紛争の平和的処理方法などの理論の面で、普遍宗教は社会構成体に影響をおよぼした。

8.イスラム教、仏教、道教

柄谷は、ユダヤ教キリスト教について、上の様に述べてきたが、他の普遍宗教でも、各地の帝国が成立する過程、つまり交換様式BとCが十分な展開を遂げる時点で出現したので、同じ経緯をたどって展開したと述べる。普遍宗教に共通の特徴は、王=祭司の批判である。しかし、どの宗教集団も拡大するにつれて、それが否定した道をたどった。つまり、国家の宗教となり、聖職者が支配する体制となった。ただ、平行して、それに対する脱構築的な力を全面的に失うということはなかった。それは、歴史の文脈の中で、「原始教団に帰れ」という宗教改革を常にともなっている。例えば、イスラム教の預言者ムハンマドがもたらしたものは、ユダヤ教キリスト教において失われた遊牧民的な互酬的共同体を回復しようとする運動である。しかし、それは根本的に都市の宗教であり、そこで強調される共同体(ウンマ)は部族共同体とは異なった高次の共同体である。ここでも、祭司=王権を否定しようとしたイスラム教は拡大するや、たちまち教権国家となってしまった。次いで、「イマーム」(指導者)による、共同体(ウンマ)を回復する運動が内部で起こった。イマームは、神と個人、超越性と内在性を結びつけるものである。したがって、イマームへの信仰は預言者崇拝以上に重要であった。特に、ムハンマドの娘婿で、暗殺されたアリーを最初のイマームとして仰いだシーア派においてはそうである。パウロがイエスの死を救済史おいて意味づけたように、シーア派はアリーの死を救済史における要とした。

 仏教についても、同様なことがいえる。仏陀が出現したのは、都市国家が濫立し、貨幣経済が急激に発達した時期であった。仏陀が行ったことは、輪廻する同一的な自己を幻想として斥ける、先行する宗教の脱構築である。カースト体制を正当化するイデオロギーとしての輪廻の否定であり、祭司(バラモン)階級の否定である。仏教はとくに商工業者と女性の間に広がったが、農民とのつながりは希薄だった。

 古代インドのマウリア王朝のアショーカ王が統一帝国を作り(紀元前3世紀)、仏教を国教とし、仏教の法(ダルマ)を政治的に実現することを目指した。しかし、仏教は農業共同体には浸透しなかったので、土俗的な宗教、ヒンドゥー教がとってかわった。仏教はむしろインド国外で存続した。中国では、ユーラシアにおよぶ大帝国だった唐の時代に、仏教は国家体制のイデオロギーとして、受け入れられた。

 仏教が日本に伝来したのは、聖徳太子が生まれる少し前である(日本書記によれば552年)。大和朝廷は集権的な体制を作るために、仏教を取り入れたが、それは「鎮護国家」のためであった。仏教の普遍宗教的な性格が発現したのは、13世紀(鎌倉時得代)に氏族社会が解体され、新たな農民共同体が形成される過渡期においてである。特に、既成の教団や僧侶を否定した、浄土真宗日蓮宗が民衆の間に普及していった。その象徴は、僧侶の戒律を破って妻帯した親鸞の言葉、「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」(歎異抄)である。ここで言っている悪人とは、犯罪者ではなく、新約聖書における取税人や売春婦のように、社会で忌避され蔑視された職業についている者を指す。他方、善人とは富裕者・支配階級である。このような価値転倒は社会的階級の転倒につながるのは当然である。浄土真宗は15世紀以後、千年王国的な社会運動(農民戦争)に転化し、封建領主を倒して平民の共和国(加賀の一向一揆)を作り、また封建領主から自立した都市(堺)を支えた。しかし、16世紀末に、豊臣・徳川による政治的集権化の下で壊滅させられた。仏教は徳川幕府の行政機構の一端となり、その普遍宗教的性格を喪失した。l

 中国における普遍宗教は孔子老子である。彼らは春秋戦国時代諸子百家が輩出した時代にあらわれ、「政治的思想」を語った。孔子は超越的な「天」に、老子は根底的な「自然」に、新たな「神」を見出した。孔子の説いた「仁」は、究極の人間と人間の関係を立て直すことで、交換様式でいえば、無償の贈与である。現実には、儒教は法や実力ではなく、共同体的な祭祀や血縁関係によって秩序を維持する統治思想として機能した。それを徹底的に否定したのが「無為自然」を説いた老子である。しかし、老子の教えも統治思想の一種として機能した。つまり、統治者は「法の支配」に任せてなにもしないほうがよい、という法家の思想(礼によって国を治めるという孔子らの思想に対抗する)になじむものだったからだ。

 法治主義によって秦を統一国家にする基盤を作ったのが諸子百家韓非子であった。秦の始皇帝は帝国を確立するや、儒教を、封建的(地方分権的)共同体を目指す反法治主義的思想として弾圧した(禁書坑儒)。しかし、秦王朝はわずか15年で滅び去った。次の漢王朝は、最初「無為自然」の老子の思想を国是としたが、それは法と恐怖によって支配した秦王朝による社会の荒廃を回復させるのには有効であった。三代目の皇帝武帝は、儒教を、国家秩序を維持するイデオロギーとして活用した。一方、集権的な国家を否定いていた儒教も、法家の中央集権主義をとりいれて変容した。その後、儒教では、南宋に起こった朱子学が、やがて科挙に登用されるようになり、国家の秩序の指針となった。一方で、陽明学のように、仁にもとづく社会変革の

思想が回復され、さまざまな社会運動をもたらした。さかのぼって、中国史において、最初の民衆の反乱は後漢末に起こった「黄巾の乱」である。これは道教にもとづく千年王国の運動であった。以後、王朝の交替の時期に宗教的社会運動が起こった。例えば、明朝の初代皇帝朱元璋はそのような運動の指導者だった。

 以後、第三部 近世世界システム、に移る。いよいよ柄谷学が展開する。