2024年7月7日 投稿

第三章 世界帝国

4.ローマ

200年間の黄金時代を含め、また西ヨーロッパと地中海全域を支配したローマについて、柄谷はわずか3ページしか記述していない。国における交換様式の観点から、そうなるのかもしれない。ここでは、柄谷の記述に従う。

 ローマはギリシアに遅れて頭角を現した都市国家である。そのため、両者には類似したところがある。ローマ人の重装備歩兵の密集戦法は、ギリシアにならったものである。王政から共和制に移行したのも似ている。王政はまず貴族政に移行したが、貴族(パトリキ)は一種の「封建」諸侯であった。貴族出身の終身議員で構成する元老院が実権を握った。しかし、重装歩兵の実体である中小農民からなる平民(プレブス)との対立を経て、プレブスだけの民会と護民官の設置が認められた。ギリシアと違ったのは、平民の中から貴族が出現し、旧貴族と結託したところである。貴族になれなかった大多数の小農民は没落してプロレタリイ(土地を失った市民)となった。こうして生じた階級的問題を解決するためには、外にむかって征服戦争をすることだった。しかし、戦争に勝っても、プロレタリイに土地・奴隷・富を分配することはなかった。

 都市国家ローマには、緊急事態に対処する特権的な地位がコンスル(執政官)に与えられていた。コンスルは独裁者の出現を避けるために、複数任命された。本書ではふれられていないが、定員2名のコンスルのうち、一人は平民から出すという法(リキニウス=セクスティウス法)が定められ、平民の権利は高められた。しかし、究極的には、このコンスルから「皇帝」が出現した。ただ、ローマ人はポリスの原理を放棄していたにもかかわらず、皇帝は元老院に従属する形をとった。それゆえ、ローマの皇帝は「共和制と専制支配の統合」と言われた。皇帝は、いわば「パンとサーカス」によって市民の機嫌をとらなければ、その地位を保てなかった。そうした中でも、皇帝クラウディウス以後は、官僚機構が整備され、皇帝の神格化がすすめられた。ギリシアと違って、ローマでは、他の共同体に対して柔軟な対応をすることで、世界帝国を築くことができた。ローマはイタリア半島のポリスに市民権をあたえ、征服した地域の有力者を市民にした。これが、地域有力者の団結・反抗を防ぐ「分割統治」の方法であった。かくして、ローマ帝国はアジアの帝国に共通の賦役貢納国家(ライトゥルギー)を完成させた。

5.封建制

a.ゲルマン的封建制自由都市

ギリシア人やローマ人がアジアに対し亜周辺に位置していたとき、ゲルマン人は「圏外」にあった。ギリシアとローマが世界=帝国に転化したとき、ゲルマン人は亜周辺に移行した(註:この移行は概念上の「移行」だけではなく、実際にゲルマン民族の地理的移動(侵略)があった)。彼らはローマの文明を受け入れながら、政治システムは受け継がなかった。そればかりか、西ローマ帝国を滅ぼしてしまった。東ローマ帝国は存続したが、やがてイスラム帝国に受け継がれた。ゲルマン人は帝国を解体しただけだったので、戦争、革命、疫病(ペスト)が蔓延した「暗黒時代」をもたらした。やがて、封建的な諸国家が分立し、数多くの自由都市が生まれた。これは、まさに世界=経済であり、ここから資本主義的経済が生まれた。

 いわゆる封建制は、ローマ帝国の亜周辺、すなわちゲルマンの部族社会において成立したものだといえる。封建制は、主君と家臣の双務的な契約関係によって成り立っている。主君は家臣に封土を与え、養う。家臣は主君に忠誠と軍事的奉仕によって応える。ウェーバーは様々な封建制のタイプをあげているが、ゲルマン的封建制の特質は、レーエン封建制(人的誠実関係とレーエン・封が結合している)にあるとする。人的誠実関係に支えられる封建制の特徴は、支配者階層の間に互酬性の原理が残っているところにある。互酬性の原理は、主君の専制権力を認めない。

 ゲルマン的共同体における農奴制は、土地を所有する個々の自営農民が、領主との間に、「恐怖に強要された契約」を結ぶことで成り立っている。しかし、農民の所有権は、時代と共に単なる借地権になってしまった。そこで、ゲルマン的共同体が貨幣経済の浸透にともない、簡単に解体され、生産手段(土地)を持つ少数の者と持たない多数の者(プロレタリア)に分解していった。

 西ヨーロッパでは、小国家(封建国家)が分立し、皇帝は名目的な存在だった。そのため、ローマ教会が皇帝や封建諸侯に対し優越的であった。都市が教皇側につくことで、様々な特権を得た。例えば、フィレンツェが1115年、コムーネ自由都市)を宣言した。ヨーロッパ北部では、1112年、ケルンの大司教が城壁内のすべての住民が市民として参加する「自由のための誓約共同体の結成」を公認した。これが自由都市(コンミューン)の法的な成立であった。かくして、西ヨーロッパには3000以上の自由都市が成立し、それを拠点として、宗教改革ブルジョア革命が起こった。

 自由都市は、商品交換様式の原理にもとづいて形成されたが、同時に、「誓約共同体」でもあった。前者は資本主義的な利益を追求するドライブであり、他方で、後者が経済的格差を相互扶助的に解消しようとするドライブとなった。したがって、都市は、パリ・コンミューンに至るまで、資本主義を超える運動(コミュニズム)の母体であった。

b.亜周辺としての封建制

ギリシアやローマが東洋的帝国の亜周辺に成立し、続いて、いわゆる封建制ローマ帝国の亜周辺、すなわちゲルマンの部族社会において成立したと言える。封建制は、やがて資本主義の発展と西ヨーロッパの優位に帰結したため、西ヨーロッパに固有の原理のように思われている。しかし、西ヨーロッパの封建制ローマ帝国、さらにイスラム帝国の亜周辺に生じた現象である。つまり、このような特性は、「オキシデント(occident、普通はオクシデント)」一般の特徴ではなく、亜周辺という位置関係にもとづくものだと言える。このことは、東アジアの日本の封建制をみると明らかである(日本は、中国の帝国に対し、亜周辺であった)。

 西ヨーロッパの中でも、ローマ帝国に対する関係で、「周辺的」と「亜周辺的」では違いがある。フランスやドイツはローマ帝国以来の体系を受け継ごうとする「周辺的」な傾向があったのに対して、イギリスは「亜周辺的」で、より柔軟、プラグマティックに対処した。イギリスは大陸には向かわず、「海洋帝国」を築き、近代世界システム(世界=経済)の中心となった。

付記:僕は、高校の歴史教師の熱心さもあってか、4世紀ごろのゲルマン民族の大移動(フン族に押し出されたといわれる)に興味を持った。現在の西ヨーロッパの国のアウトラインが出来上がる過程で、現在の政治にもかかわっている。

以上で、第二部、第三章が終わり、第四章 世界宗教に入って行く。